建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

平野の説教(4)  ルカ6:23~26

1998-33(1998/8/23)

平野の説教(4)  ルカ6:23~26

 「幸いだ、人々があなたがたを憎む時、また人の子のゆえに彼らがあなたがたを除名し
  ののしり、悪様に言う時。その日には踊りあがって喜びなさい。というのは、見よ天において
  あなたがたのほうびは大きいからだ 彼らの先祖らも預言者たちに同じことをしてきたのだ。
  しかし、わざわいだ、あなたがた今富んでいる者たち。というのはあなたがたはすでに慰めを受けているからだ。
  わざわいだ、あなたがた今満腹しいている者たち。というのはあなたがたは飢えるようになるからだ。
  わざわいだ、今笑っている者たち。というのはあなたがたは泣き悲しむようになるからだ。
  わざわいだ、すべての人々があなたがたについて善く言う時。彼らの祖先たちも偽の預言者らにまったく同じようにしていたのだ」

 (1)迫害
 23節。ここではイエスの弟子たち、キリスト者らにみまう追害の運命がつげられている。原始教会はすでにステパノの迫害と殉教、弟子ヤコブの殉教を知つていた。イエスは弟子たちにみまう迫害を「憎しみ、除名、誹謗・中傷」と呼んだ。そしてその迫害の運命を旧約聖書における「迫害された預言者のそれ」に結合され(マタイ5:12)、預言者エリアやエレミヤなどが想定されている。  この迫害に遭遇したら「躍り上がって喜べ」とイエスは語られる。「天においてあなたがたの受けるほうびは大きいからだ」。
 その場合、迫害の原因「何のための苦しみか」は明らかにされてる。「人の子のゆえにイエスゆえに」と。「イエスのゆえ苦難」である。人間にみまう苦しみの中で、その人間自身の罪のゆえの苦しみではなく、「神の栄光のための苦しみ」(エレミアス)が存在し、そのような種類の苦しみにあずかることは光栄・特権であり、信仰者としての本物であることのしるしである。「天におけるほうびは大きい」は神によってほめられること、信仰者にとってこれほどありがたいことはないし、追害を受けた者たちへの神の側の顧み・評価でもある。追害を受けた者らの「姿」が地上では目に見える形で「美しい」とはかぎらないからだ。そればかりでなく、キリストのゆえに苦しむ者らは真の預言者、真の義人(アブラハム、ヨブ)の末裔、世世の聖徒に連なることができる。
 日本のプロテスタントの歴史においてこのポイントは重要である。というのは、特に明治25、6年、「教育と宗教の衝突」の時期、キリスト教勅語の内容と合致しない、矛盾するとの攻撃を受けた時、「そうだ 確かに矛盾する」と明言したキリスト者は皆無の状況で、キリスト教は「勅語と矛盾しない」とのみ弁明して旗色鮮明を欠き、ついに体制におもねる結果を生んだ。キリスト者は迫害の運命を甘受するよりも、キリストのみを主と仰ぐことよりも、天皇制国家への忠誠の道を選び、追害をすりぬけようとしたから。この点を木下尚江ははげしく批判した。評論家加藤周一は、日本文化の特徴を「殉教の存在しない国」と言い、例外は島原の乱だという。キリスト者としても、この点よくよく考える必要がある。
 他方イエス捕縛時点で逃亡した弟子たちの変貌ぶりは、エルサレムにおける弟子たちの伝道にユダヤ当局の追害の手がのびて、当局に「鞭打ち」に処せられたことを「み名のゆえに恥を加えるに足る者となれたことを喜ぶ」としるされている、行伝5:33以下。
 ルカは23節で「イエスゆえの迫害」は、神の光栄を表しそれゆえに神からほうびを与えられるから、歓喜の源である、と語る。日本のキリスト者がこのような歓喜、迫害にあって喜ぶ体験を体験できるようになれるように。
 (2)富める者への批判
 24~25節は金持、富の所有への批判である。イエスは他の箇所で「金持が神の国にに入るよりは、らくだが縫針のあなを通るほうがたやすい」ルカ18:25と言われた。
 「あなたがたは神とマモン(富)とに仕えることはできない」ルカ16:13では、金銭が神に代わってその人の支配者になる危険を指摘しておられる。イエスの弟子となることの条件としてこう言われている、「家族や財産一切、自分のものと別れなければ、あなたがたのだれひとり私の弟子になることはできない」ルカ14:33、並行記事なし。
 この箇所は以上のような富や財産所有に対する、イエスの激しい批判の文脈で読むべきであろう。批判されているのは、「富んでいる者たち、満腹している者たち、笑っている者たち」である。「富んでいる者たち」が「わざわいだ」と言われているのはイザヤ61:2のいう「慰め」がすでに実現しおり、あらためて「神の終末時の慰め」を必要とせず、また彼らにはそれが与えられないからだ。彼ら・権勢ある者らの現在の幸せを転換するのは、貧しい人々への祝福の場合と同様、「終末時の到来」である。終末時には、満腹している者には「飢え」が、笑っている者には「悲しみ」の運命が待っているという。
 26節は、弟子たちをみまうはずの「迫害」が存在せず、むしろ彼らが「善く言われ、ほめそやされ、世の人に受け入れられる事態」は、弟子たち、伝道者たちの「わざわい」となるという。弟子たちは神の御心を伝えるのでなく、むしろ「人々におもねている」からだ。それこそその証言、伝道活動が「偽もの」である証拠だと批判されている。偽預言者が「威嚇預言」をやめて「幸いのみを説く」のと同様に、エレミヤ6:14、28:8~9。