建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

苦難の僕  ルカ24:26~27

1999-14(199/4/4)

苦難の僕  ルカ24:26~27

 「イエスは彼らに言われた『ああ、あなたがたは、預言者たちが言ったことをまったく信じない、ものわかりの悪い心をもった人たちだ。メシアはこのように苦難を受けて、栄光に入らるはずではなかったのか。そしてイエスは《モーセから始めて、すべての預言者たちによって聖書全体においてメシアについて取り扱われたこと》を彼らに解き明かされた』」レンクシュトルフ訳。
 ここでは特に26~27節のポイントを取り上げる。
 旧約聖書ユダヤ教においては「苦難のメシア」について言及したものはないといわれている(シュラーゲ、フィッツマイヤー)。大きな問題となるのはイザヤ53章の扱いであろう。イザヤ53:1~12を学んでみたい。訳はフォン:ラート。
1  「誰がわれらの聞いたことを信ずるか。
    ヤハウエの腕は誰に啓示されたか。
2   彼は若枝のようにわれらの前に育った、乾いた地から出る若枝のように。
    彼にはわれらの見るべきいかなる容姿も、いかなる威厳もなく、
    われらの慕うべき外見もなかった。
3   彼は侮られ、人々に捨てられた。
    病気を知る痛みの人であった。
    顔をおおって避けられる人のように彼は侮られた、われらも彼を数に入れなかった。
4   しかし《彼はわれらの病を担い、われらの痛みを背負つた》。
    われらは彼が神によって打ちのめされ苦しめられたのだと、思った。
5   ところが彼は《われらの咎のために刺しとおされ、われらの罪によって打ちのめされたのだ》。
    《われらの救いのために、罰が彼の上におかれ》、
    《彼のみみずばれをとおしてわれらに癒しが与えられた》=ペテロ第一2:23
6   われらはみな、羊のようにさ迷い、おのおの自分の道に目を注いだ。
    しかしヤハウエはわれらのすべての罪科を彼にふりかからせた。
7   責苦にも彼は従順に耐え、口を開かなかった。屠り場にひかれる小羊のように。…
8   拘留と裁きで彼は取り去られた。
    彼の運命を誰が考え及んだろうか。
    彼は生命ある者の地から絶たれ、《われらの咎のゆえに彼は死に遭ったのだ》。
9   彼の墓は悪人のそばにおかれ、彼の所在地は悪をなす者のそばにおかれた。
    彼は暴虐を行なわず、彼の口は偽りはなかったのに。
10  しかしヤハウエの計画は彼を(病で)打ち砕くことであった。
    彼が自分の生命を咎の供え物とする時、彼は子孫が長生きするのを見、
    ヤハウエの計画は彼の手によって遂げられる。
11  彼の生命を苦しめた後に、ヤハウエは彼に光を見させ、知識をもって彼を満足させる
    《わが僕は多くの人を義となし、彼らの咎を負う》。
12  それゆえ私は多くのものを分ち与えけ、強い者を獲物として彼に分与できる。
    彼が《その生命を注ぎ出して死に》、不義なる者に数えられたためである。
    彼が《多くの人の罪を担い、罪ある者のために身代わりとなった》からだ」

 この「苦難の僕」の詩の主題は「僕の終りから理解されるべき出来事」である、フォン・ラート。終りとは52:13~15である。「見よ、わが僕は栄える。彼は高められ、非常に高く挙げられる。…彼は多くの国民を驚かし、王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らは聞いたこともないことを見、耳にしたことこともないことを知るからだ」。また11~12節は「神の語りかけ」になっている。
 この「苦難の僕が誰をさしているか」はさまざまに解釈されてきた。第一に、聖書に登場する預言者たち、モーセダビデ、イザヤ、エレミヤなど。第二に、第二イザヤ自身との解釈。しかし自分の死をあのように語るのは不自然である。第三に、イスラエルという集団。第四に預言者集団「残りの者」。このうち、中沢は、未来のメシア説。ラートは「モーセのような預言者」説。関根は「第二イザヤ自身」との説。ブーバーは「集団」説これらの解釈のうち、旧約聖書全体からは「苦難の僕がだれかを解明できない」との結論がでてくる。新約聖書の受難物語と復活記事からはじめてこの問いに回答が出される。ここでヒントを与えてくれるのが、先のラートの視点である。「苦難の僕はその終り《ヤハウエによって僕が高く挙げられたこと》から理解される」という視点である。言い換えると、イエス・キリストの苦難と死の救済的意味は、終りから《イエスの復活からはじめて理解可能となる》《苦難の僕の死の意味が神によって示されたように、イエスの死の意味は神によって明らかにされる》ということである。
 構成は53:1~10、11~12、52:13~15となる。
 1~10では、この僕が人々から軽蔑され、見捨てられた点が強調される。52:14「その面影はそこなわれて人とも見えず、その姿は人の子と思われなかった」53:2節「彼はわれらの見るべき容姿がなく、したうべき威厳もない」3節「彼は侮られて人々に捨てられ」「(らい病人のように)彼は侮られた、われらも彼を数に入れなかった」4節「彼は神にたたかれ、苦しめられたと、われらは思った」9節「悪者とともに彼の墓がもうけられ」。
 同時に、僕の救済的業が幾度も述べられている、4節「彼はわれらの病を担い、われらの痛みを背負った」5節「われらの救いのために、罰が彼の上におかれ」「彼の打たれし傷によってわれらは癒された」6節「ヤハウエはわれらのすべての咎を彼の上におかれた」8節「われらの咎のゆえに彼は死に遭った」10節「彼が自分の生命を咎の供え物とする」11節「わが僕は多くの者を義とし、彼らの罪を負う」12節「自分の生命を注ぎ出して死に、彼は多くの人の罪を負い、罪ある者の身代わりとなった」
 僕に対する神の行為、6節「ヤハウエはわれらすべての者の不義を彼の上におかれた」ここでは第二コリ5:21を読むべきだ。10節「ヤハウエの計画は彼を打つこと」「ヤハウエの計画は彼の手によって栄える」11節「ヤハウエは彼の生命を苦しめた後、光を見させ」52:13「彼は非常に高く挙げられる」。特に53:11「ヤハウエは彼に光を見させる」52:13の僕の高挙「彼は非常に高く挙げられる」は「僕はよみがえって栄光の姿において天の王座に挙げられる」(中沢「研究」)と解釈できる、すなわち《イエスの復活と解釈できる》。
 行伝8:33において、ルカはイザヤ53:7~8から引用している「卑下することで彼の裁きは廃棄された」(ヘンヒェン訳、塚本訳は「謙遜によって裁きをまぬかれ(死に勝った)のである」)。ルカはここの「卑下すること」でイエスの死を、また「裁きの廃棄」でイエスの復活を考えていたと、ヘンヒェンは解釈する。
 新約聖書の中で、一番印象深いイザヤ53章の解釈は、第一ペテロ2:24。「このお方は《木にかけられて》(呪われた死で)私たちの罪をご自分の身に負われた。それは私たちが罪に死んで義に生きるためである。この方の打たれた傷をとおしてあなたがたは癒されたのだ」。イエスの打たれた傷(「みみずばれ」ラートの訳)によって「私たちは癒された」、この言葉ほど、キリストと私たちを深く結びつけるものはない。イエスの打たれた傷で私たちが癒される、私たちとのこのような結合を認識させてくださったのはイエスの復活であり、復活のイエスご自身が解き明してくださったのだことである。それゆえイザヤ書53章は復活祭においてこそ「解釈」されるべきだ。