建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ミナの譬  ルカ19:11~27

1999-24(1999/6/20)

ミナの譬  ルカ19:11~27

 「イエスはさらに一つの譬を話された。イエスエルサレムの近くにやってこられたので、すぐにも神の国が現われると人々が考えたからである。それで言われた、
 ある高貴な人がいて、み国を授かるために、遠い地に旅にでた。そこでまず10人の僕に1ミナづつ10ミナ渡して言われた、『私がいない間、これで商売をしなさい』。しかし国民は彼を嫌っていたので、後から使者たちをやって言わせた『私たちはこの人が自分たちの王になるのを望んでいません』。その人が王の称号をえてもどってきた時、金を渡して商売させた僕たちを呼ばせた。第一の者がきて言った『あなたの1ミナは10ミナかせぎました』。その人は言った『よくやった。おまえは善い僕だ。おまえはごく小さなことにも忠実であったから、10の町の支配権を持たせる』。第二の者もきて言った『あなたの1ミナは5ミナをもうけました』。そこでその僕に言った『おまえは5つの町を支配しなさい』。またほかの者がきて言った『これがあなたの1ミナです。布につつんでしまっておきました。私はあなたのことが恐ろしかった、あなたが厳しい方で、あなたが預けないものを取り立て、蒔かないものを刈り取られるからです』。その僕に言われた『悪い僕よ、おまえのその言葉でおまえを罰してやる。おまえは私が厳しい人間で、預けないものを取り立て、蒔かないものを刈り取ることを知つていたのか。ではなぜ私のお金を銀行に預けなかったのか。そうすれば、帰ってきた時、私は利子をつけてお金を受け取ることができたのに』。それからそばにいた者たちに言った『その1ミナをその者から取り上げ、10ミナもっている者に渡しなさい』」。
 並行記事はマタイ25:14以下「タラントの譬」。
 この譬のテーマは「すぐにも神の国は現われると人々が考えた」11節、すなわち熱狂主義的に神の国を待望する者たちへの勧告である。
 この譬の主人公は「ある高貴な生まれの人」12節。この人は「王国を授かるために、遠い国にいった」。12節の背景には、ヘロデ大王の死後、後4年、長男のアルケラオス福音書ではアケラオ)は、ユダヤサマリア、イドマヤを相続し、かつ王の称号をローマ帝国に認めてもらうために、ローマに出発した。他方アルケラオスの王位に反対して王位授与を妨害するために、ユダヤサマリアの50名の代表もローマにおもむいた。しかしアルケラオスは王の称号を承認されてもどってきて、王位授与を妨害した50名を復書のために殺害した。このような歴史的事件は、この記事では12節「ある高貴な人が、王の称号を授かるために、遠い国に行った」、14~15節「ところが国民は彼を嫌っていたので 後から使者たちを遣わして、言わせた《私たちはこの人が自分たちの王になることを望んではいない》。さてその人が王の称号を得て帰つてきた時」、27節「私が王になることを欲しなかった敵どもをここに連れてきて、私の前で斬り殺せ」に現われている。
 12節、この高貴な生まれの人は、み国を授かって来るために、遠い国に行った、これについてはイエスの称号「メシア・キリスト」や「キリストは死人からの復活によって御子と定められた」(ロマ1:4)をふまえると、当然キリストの高挙・昇天と解釈されてきた。その場合キリストの高挙は地上から単に「消失なさった」のではなく、弟子たち・信者たちに前もって「使命を与えられた」。それが13節である。「出かける時、彼は10人の僕を呼んで、1ミナづつ10ミナ渡し『私が帰ってくるまでこれで商売しなさい』と言った」。「私が帰ってくるまで」は直訳は「私が来るまで」で、いわばこの記事のキーセンテンスで、キリスト来臨・再臨を意味する。この「ミナ」は100デナリ、1デナリは一日の賃金であったから、100デナリ=1ミナはおよそ100万円。ミナは各々に与えられた「神の賜物」「神の言葉の委託」と考えられる。「私・キリストが来臨するまで商売しなさい」は、まず11節「すぐにも神の国は現われる」と考えた「人々」弟子たち、キリスト者の見解、あるいはキリストの来臨を熱狂的に期待するのみで、日常生活をないがしろにする見解をふまえ、次にその見解を批判して「新しいもの」を提示している。それは主の来臨の遅れ・遅延を告げて、遅れている来臨を勤勉に働く活動の時期と提示したもの。「ただちには到来しないキリストを待望する、その待ち方を命令されたもの」である。
 だとすると、この提示はルカ12:42以下の「善い僕・悪い僕の譬」とは違った状況でなされている。その譬では「主人は遅い」(12:49)すなわち主の来臨への待望を放棄して、無政府主義的に無為に過ごす弟子・キリスト者への批判の譬であって「思いがけない時間に主の来臨がある」と告げているから、12:50。
 ここでは主の来臨への待望は放棄されていないで、主の来臨は引き伸ばされ(マタイ25:19「だいぶ日がたってから主人が帰ってきて」)、その間の時期、旅立ちと帰還の間の時期が想定され「私が来るまで」(ルカ19:13)、その来臨までの「中間時を勤勉に働くように」との「主の命令・神の言葉の委託」をあきらかにしている。15節以下では主の到来・帰還後になされる弟子・キリスト者たちへの裁定を述べている。16節以下の「1ミナと10ミナ」には、勤勉ばかりでなく、その僕の有能さを示している。
 10ミナは委ねられた神の言葉を宣教して信者を10倍にしたという意味なのだろうか。
 「悪い僕」20節以下は、この中間時に、委ねられたものを布につつんでしまっただけで「土の中に埋めておく」(マタイ)との安全もはかっていない。無為、無責任である。この僕は主の命令に服従しなかったのだ。21節はおよそ福音的でない神理解であるが、神を「恐ろしい存在」と把握するのは、旧約聖書ユダヤ教の一つの特徴である。エレミアスはこの僕を律法学者、パリサイ人とみた、ささいな律法を守ることで身の安全をはかり利己的閉鎖性によって宗教を不毛なものにしたという。
 委ねられた神の言葉を宣教して、勤勉に知恵をつくして活動しつつ、主の来臨を待ち望め、決して熱狂主義的に(キリスト者の復活はすでに起きた、私はすでに完全である)来臨を待つな、無為に過ごすな、これがいわば中間時のキリスト者のありようである。