建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

人の子の到来  ルカ21:20~28

1999-29(1999/7/25)

人の子の到来  ルカ21:20~28

 「あなたがたがエルサレムが軍隊によって包囲されるのを見たら、その滅亡が近いのに気づくだろう。その時にはユダヤにいる者は山に逃れなさい。町中にいる者はそこから立ちのきなさい。開けた田舎にいる者は町にもどってはならない。これは《神の刑罰の日》であり(ホセア9:7)、聖書にしるされたことがすべて成就する時だからだ。それらの日に身重の女と乳飲み子をもつ女とはなんと悲しむべきかな。この地には大きな艱難が、この民には怒りがもたらされるからだ。人々は剣によって倒れ(ベンシラ28:18)、捕虜となってあらゆる民族へと引かれてゆく。異邦人の時代が成就されるまで『エルサレムは異邦人によって踏みにじられるだろう』(ゼカリア12:3)。
 また太陽と月と星とにしるしが現われ、地上では海のどよめきと荒れ狂いによって諸国民の間に不安が起こり、人々は世界の上に起こらんとしている事柄に恐れと期待で息絶える。『天の軍勢』がふるわれるから。その時権力と大いなる栄光をもって『人の子が雲に乗って来る』(ダニエル7:13)のを人々は見るであろう。それでこれらのことすべてがが起こり始めたら、体を真っすぐにして頭を上げなさい。あなたがたの願いが近づいているからだ」
 20~24節は、エルサレム崩壊の予告。20節の「軍隊による包囲」むろんローマ軍によるもの。ローマ軍によるエルサレム崩壊をこの箇所は歴史的事件として述べている。言い換えると、エルサレム崩壊は終末の出来事ではない。むしろ政治的、宗教的な出来事であって神による「刑罰の日」(22節、ホセア9:6)である。この神の罰は、エルサレムの人々が預言者を殺し、神が派遣した者を石で打ち殺し(ルカ13:34)「祈りの家を強盗の巣にしてしまった」(19:46)ことで神に背いたからだ。
 24節はユダヤ人が捕虜となる運命を言っているのではなく、彼らが「あらゆる民族の中に」「散らされる」(塚本訳だけがこの訳をする)運命を言っている。祖国を失って世界の国々で生き、再び彼らはシオンに集められることがないとのユダヤ人の苛酷な運命を意味する。
 25節以下。24節までは歴史的な事件を述べているが、25節からは「超自然的な、黙示的なもの」(コンツェルマン)が語られ、この間に大きな断絶がある。歴史的事件に天と地に宇宙的な異象現象がとって代わる。
 「その時には、太陽と月と星に《しるし》が現われる」。ヨエル2:30~31には「主の日のしるし」についてこうある。「私は天と地とに《しるし》を示す。血と火と煙の柱とがあるであろう。主の大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く月は血に変わる」=マルコ13:24~25。
 25節中段では地上での海の異常現象が強調される「地上では海のとどろきと大波にあわてふためくことによって国々の民の間に不安が起こり、その時この世に起こらんとしていることへの恐れと予感で人々は息絶えるだろう」。ここは詩46:3「たとえ海の水は鳴りとどろき、泡だっとも」をふまえた表現。ここはルカ伝のみ。
 下段「天の軍勢が震われるからだ」。ここはイザヤ34:4「天の万象は衰え、もろもろの天は巻かれ、その万象は落ちた」に由来する。天体のタカストロフ・破局を言っている。しかしながら宇宙的な危機は選ばれた者たちにはふりかからない。
 27節。このような宇宙的、地上的異象の後に「するとその時」が来る。
 「人の子の来臨」
 27節「その時、人々は、大いなる権力と栄光とをもって《人の子が雲に乗って来る》のを見るであろう」。ここはよく知られたダニエル7:13に由来する言葉、マルコ13:26。「人の子」は後期ユダヤ教においては、メシア称号である。ルカにおいては、この人の子の来臨は、イエスの昇天と同じ姿で来る、行伝1:11。したがって「来臨する人の子」は復活のキリストが栄光に満ちた到来である。
 「雲に乗っての来臨」についてブルトマンは、科学的精神をもった現代人は「雲に乗って来るメシアの到来など信じがたい」と述べた。これは一見受け入れやすい見解であるが同時にブルトマンは「人の子の来臨」自体、将来的な終末論自体も信仰にとってどうでもよいものとしてしまったようだ。 「雲に乗って到来する人の子」は「黙示的表現」であるからこれを否定・無視するのでなく「解釈すること」こそ必要である。的確な解釈が見出せない場合は「表象自体をとっておくべきであり」決して削除してはならない。キリスト者の希望の「重要な内容」だから。
 来臨において人の子のなさるのは、マルコ13:27では「選ばれた者たちの召集」、マタイ24:37以下では審判・選別「一人は天に連れてゆかれ一人は地上に残される」とあるが、ルカ伝では「弟子たち、キリスト者の贖い」である、28節。「贖い・アポストローシス」はルカではここだけ。「釈放」「解放」「救い」(モルトマン)の意味。この「贖い・救い」は通常キリストの十字架の死と結びつけられるが、ここでは「キリストの再臨」と結合されている。ロマ8:23「体の贖いを待ち望む」エペソ4:30「贖いの日」と関連づけると、キリストの来臨は究極的な救いの完成の時である。それゆえキリストはこう語っておられる「体を真っすぐにして、背筋を伸ばして、頭を上げなさい。あなたがたの救いが近いのだから」と。