建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

人の子の来臨2  ルカ21:29~36

1999-30(1999/8/1)

人の子の来臨2  ルカ21:29~36

 「それからイエスは一つの譬を語られた、『いちじくの木を見なさい、それとすべての木を。木々がひとたびその葉を出すと、人はひとりでに夏がすでに近いのを知る。そのように、あなたがたもこれらのことが起こるのを知ったら、神の国が近くに来ているのに気づきなさい。アーメン、私はあなたがたに言う、《すべて》が起きるまでは、この時代・人類は過ぎ去らない。天と地は過ぎ去るであろう、しかし私の言葉は消え失せない。
 大酒を飲むこと、酪酊、この世のことでの心配によってあなたがたの心を鈍くしないようにしなさい。さもないと、わなが落ちるように、かの日が突然あなたがたの上に到来するかもしれないから。その日は地の全面に住んでいる者すべてに到来するからだ。常に目をさまし、祈っていなさい。あなたがたがやがて起こるこれらのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように』」
 29~30節。「いちじくの木」は落葉樹であって、冬には葉を落とし死んだようになるが、春になるとまた芽が出て葉をつけると夏が近いのがわかるという。葉が出ると夏が近い、というのは、パレスチナ的な気候のせいでであろう。イエスは自然界の営みを歴史の出来事、終末論的出来事に転調させて、神の国の到来が近いと言いたもう(マルコ13:30では「人の子が門口近くの来ているのを知れ」とある。マルコ13:32では「人の子の到来の日時を子も知らない」とあるが)。ルカでは、人の子・イエス神の国の到来を知つておられる、イエスは「すべてが起きるまではこの時代は過ぎ去らない」と言われたが、32節、「すべて」は神の計画全体をさしている。すなわちイエス神の国の近いのを知つておられてそれを弟子たち・キリスト者に告げておられる。
 それにしても「すべてが起こるまでは」もう少し時間がかかりそうなニュアンスがあるとれる。「この時代は過ぎ去らない」の「時代」の翻訳は難しい。「人類」の意味が一番的確であろう、コンツエルマン、フイッツマイヤーなど。
 33節では、旧約聖書の「草は枯れ、花はしぼむ。しかし私たちの神の言葉は永久に変わらない」(イザヤ40:8)などをふまえて、「天地は過ぎ去る、しかし私の言葉は過ぎ去らない・消え失せない」と、イエスの預言も永久不変であると語られた、イエスの言葉は天地よりもより確かだからだ。
 34~36節は勧告・警告の言葉でいわばこの箇所の中心ポイント。酒の暴飲、酒に酔うこと(宴楽、泥酔、ロマ13:13)この世のことでの思いわずらいによって心・頭を鈍くするな、とイエスは警告される。このような泥酔やこの世のことへの心配の背景には「人の子の来臨の遅れ」という問題があったようだ。将来を喪失して自暴自棄の感じがする(死人のよみがえりへの不信による自暴自棄は第一コリ15:32にある)。この自暴自棄に対する警告・勧告はこう言われている「かの日は《突然》あなたがたの上に到来するかもしれない」34節。この警告はパウロの見解、第一テサ5:2、6「主の日は盗人が夜来るように来る、…目をさまして慎んでいよう」と似ている。ルカ伝は待望すること自体の中で「間延び」が起きて、緊張感がうすれているのをとらえて、それに《かつを入れて、新しい気持で待望の姿勢をつくりあげようとしている》。
 35節は人の子の到来における審判は普遍的で「地の全面に住んでいる者すべてに」もたらされる、という。これも心を鈍くするな、の根拠づけにされている。普遍的な審判からのがれて「到来する人の子の前に立つ」36節これがキリスト者すべての願いである。
 ここでの弟子たち、キリスト者たちへの中心的な警告・勧告は「常に目をさまして、祈っていなさい」36節である。同じ勧告は、マルコ13:37、マタイ25:13、26:41、第一テサ5:6などにある。
 この警告「目を覚ましていなさい」はマタイ25:13、「目をさまして祈っていなさい」は26:41にあるが、ゲッセマネで弟子たちに語られた文脈、弟子たちは気づいていないにせよ、ゲッセマネでは実は弟子であること、イエスとの結びつき、そして彼らの信仰も最も危機的なものとなっていた。「目を覚ましている」は不可避的な試練に準備、用意をすること、また苦難への用意である(グニルカの注解)。マタイ25:13では再臨の遅れ(花婿の到着が遅れている、5節)をふまえて、目をさましておれと勧告される。
 ここルカ伝でも、「目をさまして常に祈れ」には、同様の文脈が考えられる、人の子の来臨の遅れが前提とされ、そこでは心が鈍くなるが問題にされ、また試練・誘惑の状況のもとでの信仰生活から脱落することが問題となる。状況は二重構造的である。すなわち一方で弟子たち・キリスト者らは《まだまだ待望しなければならないが》(泥酔や心の鈍りでは待望にくたびれたキリスト者の状況が示唆されている)、他方で「常に目をさましておれ」で《常に備えていること》が求められている。「常に備えている」は、自分自身の力でできるものではないから(ペテロのつまづきにおける大言壮語、22:33)、目を覚ましているは神への祈りと解きがたく結びつく、祈りぬきにしては、目を覚ましていることはできないからだ。ただし、ルカ伝ではマタイ伝にない「常に」という用語があって来臨に至るまで「ずっと、いつも、終りまで」という意味が強調されている。しかも「常に」は「目をさまして」と「祈れ」と双方にかかる。「祈れ」にのみかける翻訳が多いが目をさましてにもかけるべきである。かの日の到来の突如性をふまえるから。
 この勧告は決して隠遁的ではない。むしろ弟子たち、教会共同体の日々の活動への勧告である。人の子の来臨がたとえ遅れていても、弟子たちは神への奉仕、与えられた使命を果すこと、福音の宣教をし続けることをやめてはならないと告げているから。