建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

最後の晩餐1  ルカ22:7~16

1999-31(1999/8/15)

最後の晩餐1  ルカ22:7~16

 「過越の小羊がほふられる、種なしのパンの(祭りの)日が来た。イエスはペテロとヨハネとを派遣して言われた『行って、 私たちが食べる過越の支度をしなさい』。すると二人は言った『どこで支度をするのをおのぞみですか』。イエスは言われた『見よ、街に入ると、水のかめをかついだ人と出会う。その人について行ってその人の入る家に入って、その家の主人に言いなさい。先生があなたに言っておられます、私が弟子たちと過越の食事を食べる部屋はどこかと。するとその人は敷物のしいてある大きな二階の客間に案内してくれる。そこで支度をしなさい』。二人が入って行くと、イエスが言われたとおりであった。そして二人は過越の食事の支度をした。
 時間になったので、イエスは食卓につかれた。 使徒たちも一緒であった。イエスは彼らに言われた『私は苦難を受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしたいと強く強く願っていた。私はあなたがたに言う、神の国が成就するまでは、私はもはやこの過越の食事をしないのだから』」
 22章からルカ伝の受難物語が始まる。祭司長らと律法学者らによるイエス抹殺の陰謀とユダの裏切りとがまず述べられている、1~6節。
 7~14節は過越の食事の準備の箇所。ルカ伝はマルコ伝の14:12~17を採用している。マルコ伝では二人の無名の弟子を準備のためにイエスは街・エルサレムに派遣するが(イエス一行は街の外のオリブ山のふもとにいる)、ルカ伝では彼らが筆頭弟子の「ペテロとヨハネ」だと述べて、過越の食事のイニシアティブをとるのはイエスご自身であることを強調している、8節。
 7節「過越の祭り・過越の食事」はユダヤ3大祭りの中心的なもので、出エジプトの時神の怒りの霊が、鴨居に羊の血をぬってあるユダヤ人のいる家の戸口を「過ぎ越し」、隷属状態のユダヤ人全体を救ったという、神の救いの出来事を「記念するために」祝われた一申命16:1~8など。時期的には春・ニサンの月・3~4月ころから1週間。出エジプトはあわただしくなされたので種・イースト菌も持ってこれなかったので、農業祭的期限をもつ「種入れぬパンの祭り」と遊牧的祭り・過越の祭りはのちに結合した。祭りの前14日の晩(4月1日ころ)、当歳のおすの小羊をほふり、その血は鴨居にぬりその肉と種入れぬパンを食べた。ヨシア王(前600年ころ)にはエルサレムでこの通り祝われていたという。これが過越の食事である。
 水かめをかついだ男とその主人の話(10節)は、イエスが前もって、弟子たちが知らない時点で、この二人と取り決めとしたことを意味していないようだ。特にこの主人はエルサレム市内に大きな家を持っていた人だ、「階上の大きな客間」。
 13節、ペテロとヨハネは小羊を手にいれてほふって焼き、種いれぬパンを用意した。14節「時間になると」は、ニサンの月の金曜日の夕方。食事の場所はむろんエルサレム市内である(食後彼らはオリブ山のふもとにもどる、39節)。復活以前に「弟子たちを使徒たち」呼ぶのはルカの特徴。ルカ伝は生前のイエスと行動を共にした弟子のみを、「使徒」とみる、これだとさしあたりパウロバルナバ使徒でなくなる。
 15節でイエスは弟子たちと過越の食事をしたいと切望されたと言われる。この意味はどういうことか。前半に「私が苦難を受ける前に」とある。ではこの過越の食事は「最後の晩餐」とどのように関連するのか。最後の晩餐は過越の食事なのか。
 「最後の晩餐」という用語は新約聖書にはない。パウロ聖餐式の箇所で自分の受けた伝承として「主は渡された(裏切られた)夜、弟子たちと食事をして」(第一コリ11:23)と述べて、当時(後56年ころ)「主の晩餐」が祝われていたという(11:20)。言い換えると、教会は過越の食事を祝うことはなかった、むしろ「主の晩餐」(聖餐式)を祝う。他方、パウロは「過越の小羊なるキリスト」(第一コリ5:7)といってキリストの死を過越の前夜(神殿で)ほふられる小羊になぞらえている。
 共観福音書はすべて最後の晩餐を過越の食事とみなしている。弟子たちはニサンの月の14日(4月1日ころ)の夕方、過越の祭りがはじまる日、金曜日食事をして、その後オリブ山麓にもどり、そこでイエスは捕縛された。ヨハネ伝のみはこれを木曜日とみている「過越の祭りの前」13:1。この過越の食事をもってイエスの受難が始まる。これが「私が苦難を受ける前に」の意味である。
 16節後半「神の国が成就するまでは私は決してこの過越の食事をしないのだから」について。ここは難しい箇所。(1)実はイエスは「過越の食事の以前に自分が死ぬことを知っていた」ので(ヨハネ伝ではイエスは木曜日に死ぬことをふまえて)、この食事をとることを切に望んでいたが、果せなかったとの解釈、おかしい。共観福音書ではこの食事は金曜日だから。(2)仮定法的に16節を「私が死ぬ前に、この過越の小羊を食べることができたら、どんなにうれしいことだろうに」と訳し、これと18節「私は今からのち神の国がくるまでは、決してぶどうの木からできたものを飲まない」を結合して、イエスはぶどう酒の杯は使徒たちに与えたが、ご自分では飲まなかった、み国における杯のみを飲もうとされたと解釈する、エレミアス。これではテキストと合わない(3)使徒たちとの過越の食事をしたいとのイエスの切望は実現した、との解釈。ただし神の国の実現のポイントがこの解釈では不十分だ。
 16節は受難を前にして使徒たちとの最後の、すなわち別れの食事という意味と、さらにご自分の苦難と死の意味を前もって使徒たちに告げられる、「神の国が実現するまで」はまさしくイエスの苦難と死による罪の贖いの実現のこと。ルカ伝では過越の食事をとることイエスの苦難とを強く関連づけている。イエスは「神の国での使徒たちとの祝宴」(13:29、14:15)に至るまで使徒たちとの食卓の交わりが断たれると言われる。これはいわば告別の言葉である。それと同時に「最後の晩餐」は将来に向う、「新しい救いの出来事の先取り」である。その出来事とはイエスの苦難と十字架の死による罪の贖いである。