建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

給仕する者  ルカ22:24~30

1999-32(1999/8/29)

給仕する者  ルカ22:24~30

 「ところで弟子たちの間で、自分たちのうちで誰が一番偉いとみなされているかについて、論争が起きた。そこでイエスは彼らに言われた『諸国民の王たちは人々を支配し、人々に権力をふるっている人たちは自分たちを《恩人》と呼ばせている。しかしあなたがたはそれではいけない。むしろあなたがたの間で一番偉い者は一番若輩な者のように、指導者は給仕する者のようになりなさい。いったい食卓につく者と給仕をする者とどちらが偉いのか、食卓につく者ではないか。しかし私はあなたがたの間で給仕する者のようになっている。しかしあなたがたは私のかずかずの試練の中で、私のもとで持ちこたえた者たちだ。そこで、私の父が私のみ国(支配)を私に委ねてくださったように、私はあなたがたを私のみ国での食卓で飲み食いし、あなたがたを王座につかせて、イスラエルの12族を裁くように、あなたがたに委ねる』」。
 平行記事はマルコ10:41以下、マタイ20:24以下。他の記事とちがってルカ伝では、ユダの裏切りに引き続き、この誰が一番偉いかの論争につなげられている。給仕するイエスの姿はヨハネ13:3~17のイエスの洗足を彷彿とさせる。
 25節「諸国民の王たちは人々を支配し、人々に権力をふるっている人たち」は、イエスの、政治的権力者への批判を述べた、めずらしい箇所とみることができる。13:32にイエスは「あの狐」と言って「ヘロデ・アンティパス」を批判した箇所がある。ローマ帝国の税金の徴収をもイエスは受け入れなさった(20:20以下)。ユダヤ教当局に対しては安息日問題(6章)、罪の赦し(5:20)、取税人、罪人らとの会食などで多くの対立・衝突を起こしたが、ローマ帝国とは不思議にイエスはトラブルを起こされていない(マタイ5:41では「ローマ帝国の課す労役」にも服従を説いておられる)。ピラトによるイエスの審問ではイスラエル的な伝統「メシア問題」(23:3「お前はユダヤ人の王なのか」はピラトの側で深刻に・政治的に受け取られて、いわば白熱したものとなった。とにかくこの箇所はめずらしく、ローマを含めた政治的権力者「王たち、権力をふるっている人たち」をイエスは批判されている。「諸国民・エトネー」の用語をフイッツマイヤーは「異邦人・異教徒」と訳す、名指しではないがローマ帝国の支配者がここには含まれる。25節「恩人」は、ヘレニズム世界では、神々、王女たち、皇帝に与えられた称号。皇帝アウグストの場合碑文や勅令において彼の「恩顧」がしるされている、またネロも「恩人、救世主」の称号を与えられたという。イエスがこの用語でローマの皇帝らも想定していたのは明らかだ。26節「あなたがたはそれではいけない」はとても強い主張である。キリスト者の間では「他者を支配する、他者に権力をふるう」存在をイエスは否定された、たとえ教会においても。マルコ伝では「筆頭者(偉い人)」と「奴隷」の対比、マタイ20:26では「偉い者」と「召使」の対比であるが、ここでは「一番偉い者」と「一番若輩な者」、「支配する者」と「給仕する・世話をする者」との対比。バウアーのギリシャ語辞典は「給仕する者」と訳している。
 27節前半は修辞疑問。後半「私はあなたがたの間で、給仕する者となっている」の直接的意味は、最後の晩餐におけるイエスの家長としての「パンを裂いて手渡す行為」を意味している。ヨハネ伝は「弟子たちの足を洗うイエスの姿」をしるしている(13:4以下)。真の意味でイエスは「偉い者」であられたが、弟子たちの間では「給仕する者」となられた。イエスの生涯、および来たるべきイエスの苦難と死とは「仕えるため、ご自分の生命を与えるため」にあった(マルコ10:45では「人の子が来たのも仕えるため、多くの人の贖いとしてその生命を与えるためである」)。ここでは「給仕るする者として仕えること」と解釈される。しかも12:37によれば、来たるべき神の国で「主人が僕たちのそばに来て給仕してくださる」その先取りとして弟子たちに給仕するお方である。
 このイエスの存在と現実の行動をもとにして「支配する者は給仕する者となれ」(26節後半)と命じられる。
 28節においてイエスは弟子たちが「数々の試練・誘惑の時に、イエスのもとで持ちこたえた・とどまった」と言っておられる。「誘惑」はかつての事柄、一般的試練ではなく「サタンによる誘惑」(22:3)、そして今やサタンの誘惑が始まろうとしている。
 22:3「サタンがユダに入った」でキリスト者であることの戦いが始まる。ルカ伝ではイエス受難において弟子たちの逃亡はしるされていないし、ペテロのイエス否認は弱められている、22:32参照、61参照。マルコ、マタイ伝と違ってイエスと弟子たちとの絆は失われない、ユダは去ったが弟子たちはイエスのもとに今もとどまっている(動詞は完了形)、「イエスのもとで試練に持ちこたえている」の意味。
 さて29~30節はルカ伝だけのもの、30節後半はマタイ19:28参照。弟子たちに「イエスの御国においてイエスの食卓で飲食させ、王座にすえて、イスラエルの12族を裁かせる」という。「イエスの御国での飲食」は神の国での聖餐であるが、弟子たちは誘惑にもちこたえ苦難と殉教とをとおして、この御国の聖餐にあづかる。「イスラエルの12族を裁く」というのは、イスラエルの政治的な支配者となる、弟子たちを迫害したユダヤ人を裁く、という意味ではない。再構築されたイスラエル、再構築された神の民、すなわち教会の指導者となる(「裁く」は「支配する」の意味)という意味。