建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

イエスの復活と希望 復活の史実性(三)

2000講壇1(2000/1/30~2000/4/9)

エスの復活と希望 復活の史実性(三)

 グラースは、復活顕現が「幻視・Vision」として特徴づけられるという。
 幻視とは何か。パウロは幻視(オプタシア)の体験「第三の天まで連れられた」幻視について語った(第二コリント12:1~10)。
 さて「幻視」は個人的なもののみではなく、複数の人間が同じ時間・空間に共にいて、一方の者が、超越者の姿を見たりその言葉を聞いたりするが、他の者のほうはそれを体験することがないという宗教現象のことで、神による特別の啓示・使命の授与が眼目である。
 旧約聖書の例では、神が年若いサムエルの名を呼んだ時、サムエルはその呼びかけを聞きとったが、師エリの声と思ってエリに返事をしたが、同じ神殿にいた師のエリは何も聞かなかった。エリもサムエルの聞いたその声が神からのものであるらしいことに気づいた(サムエル上3章)。これは典型的な「幻聴・Audition」の例である。しかし実在しない声を聞いたと言い張る精神疾患者の病状、心理学用語の幻聴ではない。このような幻視、幻聴体験は《宗教学的な概念》であり(オットー「聖なるもの」)、その者を預言者、使徒などへと召す神による召命の出来事である(イザヤ6章、エレミヤ1章など)。
 ルカは「パウロのダマスコ体験」について報告している。キリスト者を迫害するためにシリアのダマスコにパリサイ人のユダヤ教徒パウロ(サウロ)は同伴者らと向っていた。
 「パウロが進んで行って、ダマスコに近づいた時、突然天からの光が彼の回りを照らした。そして彼は地に倒れ『サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか』という声を開いた。そこで彼は言った『主よ、あなたはどなたですか』。その人は言った『私はあなたが迫害しているイエスである。ともあれ立ち上がって街に入りなさい。そうすればあなたがなすべきことが告げられるだろう。《彼と共に旅をしてきた人々は唖然として立っていた。声は聞いたが、誰も見なかった》。サウロは地から助け起こされた。ところが目を開けた時、何も見えなかった。そこで々は彼の手を引いてダマスコへ連れていった。彼は三日間、何も見えず、また飲食もしなかった」(使徒行伝9:3~9)。
 ここに述べられたパウロの「回心」も典型的な「幻視体験」である。同伴者らは「声は聞いたが何も見なかった」からだ(申命四4:13、シナイ山十戒を与えられた時モーセは述べている「主は火の中からあなたがたに語られたがあなたがたは言葉の声を聞いたが、声ばかりで何の形も見えなかった」)。他方行伝22:9では同伴者は「光は見たが、私に語られた方の声は聞かなかった」とある。いずれにせよ彼の同伴者は「復活のイエスの姿」の目撃からは締め出されていた。
 復活顕現に出会った体験が「幻視」であったとの見解は、きわめて重大かつ重要である。パウロがこれにあてた用語は「キリストは…見られた・現われた・オプテー」である(第一コリ15章)。この「幻視・幻聴」の特徴が欠落すると、さまざまな誤解や脱線が起きてくる。
 第一の誤解。パウロは「地上的人間の体」と「霊の体」との異質性を主張したが(第一コリ15:44)、この異質性が欠落すると「復活のイエスの顕現」はいともたやすく「地上的人間の体での出現」、「墓から蘇生した亡骸の顕現」(ヒルシュの見解、ミハエリス「復活した方の顕現」から)と誤解されてしまう。しかし「蘇生」と「復活」はまったく別物である。復活のイエスの体は「地上の人間の体」ではなく「霊の体、変容した体」であるはずだ。
 第二に、復活顕現を「天的な光の出来事」として述べている行伝9章の表現方法は、復活した方の「高挙」(天からの光)とはつながるが、その方の「霊の体」との関連が希薄すぎる。
 「復活したお方の顕現が《幻視・幻聴》であったとの見解」においては、「福音書の復活顕現」との関連が重要であるが、従来これはあまりうまく根拠づけられていない。
 最古の復活伝承の一つ、パウロの第一コリ15章をベースとして、これを先の行伝9章のパウロのダマスコ体験と結合・関連づけているのが、パンネンベルクの立場である。先に言及したように彼はグラースに従って、福音書の顕現記事を(復活したお方が身体を具有していることを論拠にして史実的ではない)とその顕現記事を拒否してしまう。そして彼は復活顕現が(幻視)であった箇所としてあげたのが行伝9章のダマスコ体験である。
 ここでグラースやパンネンベルクが、復活した方が身体を具有していたとしてあげた福音書の記事を取り上げたい。ルカ24:36~43
 「(エマオの弟子)二人がこう話しているところに、イエスご自身がみんなの真中にお立ちになって、弟子たちに『平安あれ』と言れた。彼らはぞっとしておののいて、幽霊を見ているのだと思った。イエスは彼らに言われた『なぜうろたえているのだ。なぜ心に疑いを起こすのか。私の手と足を見てみなさい。ほんとうに私だ。私に触ってみなさい。幽霊には肉も骨もないが、私にはそれがあるのがあるのがわるから』。(こう言われてイエスはご自分の手と足をお見せになられた)。彼らは喜びのあまりまだ信じられず、怪しんでいたので、イエスは彼らに言われた『ここに何か食べるものがるか』。彼らは焼いた魚を一切れ差し上げた。イエスはそれを受け取って彼らの前で食べられた」
 この記事の意図は何であろうか。従来は原始キリスト教の内部に存在した、仮現説とイエスの「霊魂的復活」を説き、その身体的復活に異を唱えた異端「グノーシス主義との闘い」がこの記事の背景にあって、その異端への反駁だと考えられていた(ヒルシュの見解)。しかしこのヒルシュの見解に対しては批判が多い。
 「しかしこれらの箇所が反グノーシス的な弁護論と把握されるべきかは疑わしい」(ミハエリス)。ヴィルケンスも述べている、この記事の強烈な関心は「おそらく異端的キリスト論」[グノーシスの仮現説]に対する論争的関心ではなく、顕現した復活した方が弟子たちの教師であり主であったイエスと同一であること」にあったと。
 この記事の意図は、まずイエスの復活に対する弟子たち自身の「疑いを克服すること」にある。弟子たちのイエスの復活に対する疑いは、突然の復活のイエスの顕現に「弟子たちはぞっとしておののいた。幽霊を見ていると思ったのだ」37節とある。この弟子たちの「疑い」はただちにイエスによってとがめられている「なぜ心に疑いを起こすのか」38節。そして復活のイエスがその疑いの克服としてなされたのが二つの仕方である。第一は「復活した方の手と足、そこにある傷跡の提示」である、39節。(40節の手足への接触はヨハネ20:20とまったく同じなので、そこからの挿入と解釈されている)。復活した方の「傷跡のある身体性の提示」、これが「復活の証明方法」である。この証明方法は、敵側(グノーシス主義)との対決を反映している。特に「幽霊には肉も骨もないが、私にはそれがある」39節の意味は明らかなはずだが、弟子たちの疑いは頑強である「彼らがまだ信じられないで怪しんでいると」41節。第二の証明方法は復活した方が「ものを食べる」という方法である。「イエスはその魚を受け取って、彼らの前で食べた」43節。弟子たちの前での食事によって、 復活した方は「蘇生した方」として顕現したのではないかという印象が強い。では「肉も骨もある体」は「復活の体」ではなく「蘇生した体」を示しているのだろうか。 続