建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

イエスの復活と希望 復活の史実性(五)

2000講壇1(2000/1/30~2000/4/9)

エスの復活と希望 復活の史実性(五)

 トマスの話では、他の弟子たちがトマスにイエスの復活顕現においてその手と脇腹を見たことは前提とされている、彼らがトマスにそのことを語ったからだ、ヨハネ20:25節。しかしトマスは他の弟子とは違って「苦難の傷痕へへの接触をとおして、復活した方の真の身体性を確認し、またそれによって仲間の弟子が見たのが幽霊である可能性がすべて排除されるならば、その場合にのみ、主の復活を信じると反論した、25節後半。
 8日後、イエスは同じ時刻同じように鍵のかかった同じ場所に顕現された、26節。
 主はトマスが復活顕現を信じる絶対的条件として要求した事柄を驚くべき仕方で知っておられてそれをかなえられた、27節「あなたの指をここにもってきて、(刺しつらぬかれた)私の両の手を見てみなさい。あなたの手をとって私の脇腹に差し込んでみなさい。最早不信仰にならず、むしろ信じる者になりなさい」(グラースの訳)。
 主による愛の証明にトマスも私たち読者も圧倒されてしまう。そしてトマスはイエスの復活を信じるに至る、そのことを彼の信仰告白が示している「私の主よ、私の神よ」28節。
 では実際にトマスは「復活した方の身体に触れた」のかそどうか、その接触をとおして信仰告白へと導かれたのかどうかは、論争されている。イエスがトマスに回答した言葉「あなたは私を見たので(だけで)信じたのか」29節、において「見た」は「接触」を排除したものではなく、「見て触るというニュアンス」であろう、しながら「現に触った」とはしるされていない。状況的には、トマスは「触りなさい」との復活した方の指示に度肝をぬかれてしまい、「見ただけで」ただちに信仰を告白し、かつ「接触」自体は断念した、とも映る(ブルトマン、マルクス・バルト)。
 これに対して、グラースは確実に復活した方は触ることができると考えられていると解釈する。その根拠として第一に、ルカ24:39の「さわってみなさい。幽霊には肉と骨はないが私にはそれがあるのがわかる」では、実際の接触がなされたと述べている。第二の根拠として偽典の「使徒たちの書簡」9~12で、復活した方が使徒たちこう要求した箇所があるという
 「ペテロ、あなたの指を私の手の釘の痕にもつてきなさい。トマス、自分であなたの指を私の脇腹の突き傷の痕に差し込んでみなさい。アンデレ、私の足にさわって、それが大地についているかどうか見てみなさい。これによって、ほんとうに私であることが、あなたがたにわかる。というのは預言書には、悪鬼の幽霊の足は地についていないとしるされているからだ。そこで私たち三人は《復活した方にさわった》。それによってその方がほんとうに《肉体に復活させられた》ことを私たちは認識した。また私たちは自分たちが不信仰であった罪を告白した」。
  第三に「スミルナのキリスト者へのイグナチウスの書簡」にはこうある(3:2)、
 「私は主が復活後も肉にあったことを知りかつ信じている。彼はペテロのまわりにいる人々のところに来て、言われた『つかみなさい。私にさわりなさい。私が肉体のない悪霊ではないことをみなさい』。そこで《彼らがすぐにその方にさわり、信じるようになった》。それから彼らはその方の《肉体と精神》に密接に結び合わされた。…復活の後主は、霊的には父と一つであったとはいえ《肉体的存在》(サルキノス・Fleischer)としては、彼らと一緒に食べたり飲んだりした」(「使徒教父文書」荒井献編参照)。
 これら偽典の表現、イエスが「肉体に復活させられた」(「使徒たちの書簡」)、復活した方が弟子たちと飲食をしたのは「肉体的存在として」であった点は目をひく。
 「蘇生」(ラザロの例が福音書にしるされているが)の場合、蘇生された者はやがてまた死ぬのだ。これに対して「復活」の場合、もはや死ぬことがなく、地上的な存在様式(「地上的な体」)とは違った存在様式「霊の体」となるとパウロはみた。しかしながら偽典にある表象群「肉体への復活」、復活した方を「肉体的存在をとおして」把握するやり方は、この「蘇生と限りない同一性」をもっている。すなわち「復活との異質性」が限りなくあいまいである。
 顕現において復活した方が「その手と脇腹を見せられた」(ヨハネ20:20)の背景にはグノーシス的異端、仮現説的異端に対して反論する態度があるようだ。ヨハネの手紙においてもグノーシス主義、仮現説への批判は明らかである(第一ヨハネ1:1、4:2など)。しかし反グノーシス主義的「身体的復活の現実性」の強調は、パウロの「地上の体と霊の体の間の緊張関係」を踏み超える危険「イエスの肉体の復活」(「使徒たちの書簡」「イグナチオの手紙」)への脱線と紙一重のようだ。
 さてブルトマンは先の20:29のトマスへの復活した方の言葉「あなたは私を見たので信じたのか。幸いなるかな、見ることなく信じる人々」について述べている、
 「復活した方の顕現が現実的な事件である限り、根本においてそれらは[復活した方の体を見たりさわったりする顕現自体]は不可欠ではない、実際それらは必要ではないはずだ。しかし人間の弱さのために許容されている。…復活した方を肉体的に見たい、そうだ、手でさわりたいというトマスの願いはかなえられる。しかし同時に彼は叱責されている『あなたは私を見たので信じたのか。幸いなるかな、見ることなく信じる人々』。その中には啓示する方が手でさわれるように現われることを願う信仰の小ささに対する批判がある。また復活祭の物語をそれに許されていること以上のもの、しるし、表象、復活祭信仰の告白と受け取ること以上のものにしようとすることに対する警告が存在している」(「新約聖書神学」)。
 ブルトマンの批判はトマスの態度、しるしを求める実証主義的態度に対してばかりでなく、もう一つ、復活した方が弟子たちに手と脇腹を見せた「復活祭の奇跡、復活祭物語一般」にも向けられている。
 しかしながら、他の弟子たちへの顕現(20:19~23)は、弟子たちの派遣という復活顕現の、それゆえ復活祭物語の根本的な内容を含んでいる。また他の弟子への顕現も「身体具有的な現臨」であった。「私たちは主を見た」(25節)との証言からみて、彼らは今や主の復活を信じているが、彼らの信じた方も「復活した方を見たので信じた」やり方であった。しかし彼らは復活した方に批判されてはいない。
 イエスを試そうとして「天からのしるしをイエスに求めた」パリサイ人やサドカイ人の要求をイエスは拒絶された(マルコ8:11、マタイ16:1以下)。しかしトマスは同じような拒絶にはあっていない。拒絶ではなく、むしろ《心からの憐れみを主は疑い深いトマスにくだされた。それはすべての疑いを捨て去らせるには十分なものであった》(グラース)。
 福音書の顕現記事を注意深く読んでいくと、イエスの復活を弟子たちが信じられないと多くの箇所で述べられている、それのみならず顕現記事は「イエスの復活への疑いはどのようにして乗り越えられるか」というポイントをも明らかにしているのに気づく。だいたい復活した方による「その手や足、脇腹を見よとかそれにさわれ」との《肉体的な顕示》は「ドケティズム(仮現説)、グノーシス主義への反駁」という動機に基づくと指摘されてきた。復活への疑いを克服しようとする動機がはるかに強く働いていると考えられる(ブルトマンの「注解」)。
 先に言及した「イグナティオスの書簡」にも復活した方にさわることで復活そのものを弟子たちは信じた、つまり疑いを克服した、と述べている。
パウロの第一コリ15章において、復活への疑いが言及されている(15:12「あなたがたの中の数人は、 死人の復活はないといっている」)。この疑いの克服を、復活顕現に出会った《証人たちの列挙》という仕方でパウロは試みた(15:3以下)。
 マタイ28章においては、弟子たちは復活顕現に出会っただけではその疑いは解消しなかった、16、17節「11人の弟子たちは、イエスに指示された、ガリラヤの山へいき、イエスに会い、ひれ伏した。しかし《彼ら全員は》疑っていた」ザントの翻訳。ここは「疑う者もあった」との翻訳が大多数で《11弟子のうち少数者だけがなおも疑っていた》と解釈されている。しかし原文は「彼らのうちの数人」でなく、ただ「彼らは」とある。それゆえ直訳ではザントの訳《弟子全員が疑っていた》が正しい。そこで弟子たちが「疑いを克服した」のは、復活した方による、世界宣教への委託によってであったと解釈できる、「行ってすべての国民を弟子にして、彼らに父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授けよ」(19節、ザントの注解)。
 ルカ24章では、他の顕現記事よりも集中的に復活への疑いが述べられている。マグダラのマリアらが空虚な墓については男性弟子たちに告げたが、彼らは「その話が冗談のようにみえたので、女性たちを信じなかった」としるされている(12節)。エマオの弟子たちの発言、イエスの十字架の死から「今日はすでに3日目になりました」(21一節)は、イエスのよみがえりがもはやありえないという彼らの絶望と諦念を意味している。さらに彼らの空虚な墓に対する無理解は「預言者たちの言葉を少しも信じない、悟りの悪い、心の鈍い人たちだ」と復活した方に叱責されている(25節)。復活顕現を幽霊と思ったペテロらの反応は「なぜうろたえるのか、なぜ疑いを起こすのか」38節「信じられないで疑いている」不信仰の態度、41節は、復活した方によって厳しい叱責を受けている。弟子たちの、復活への疑いの根深さを打開としてルカ伝は顕現記事の中ではじめて復活した方の《手足の顕示と接触》という方法を導入した。「私の手と足とを見なさい、それにさわりなさい」(36節)という《身体的な顕示と接触》によって、イエス復活への彼らの疑いを乗り越えさせようとしたのだ。
 ヨハネ20:24以下でも、復活への疑いの解消というこの動機が働いている。復活した方は「あなたの手をもってきて、私の脇腹に差し込んでみなさい」と言われた(27節)。ここで疑い深いトマスに対して復活した方は《復活顕現をみて信じた》他の弟子たちに対してよりもはるかに踏み込んで《さわることによって信じる》という形で(イグナチィウス書簡)疑いを乗り越えさせようとしている。言い換えるとイエスの復活に対する異端的な見解、非身体的復活、霊魂的精神的復活への反論という動機よりも、復活自体への疑いを克服しようとの動機のほうがはるかに強く働いている。身体の顕示と接触の指示は《復活の現実性の表現》とみるべきだ(ヴィルケンス)。けして聖伝のレッテルをはって切り捨ててはならない。
 むろんトマスへの顕現には《別の動機》もうかがえる。それは「イエスの手の釘の場所」「イエスの脇腹」(25節)で示唆された「イエスの手にある釘の傷痕、イエスの脇腹にある槍の刺傷」への接触が強調されることで《復活した方はほかでもなく十字架で処刑された方と同一であるという同一化の動機》が明らかに作用している、ブルトマン「注解」、ヴィルケンス「復活」、シュナッケンブルク「注解」。