建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

復活と希望 パウロの復活理解2

2000講壇2(2000/4/16~2000/7/30)

復活と希望 パウロの復活理解(三)

 他方アンテオケの教会ではペテロは教団指導者として現われているが、使徒会議の時点には(後48年)ヤコブは決定的な言葉を語っている、行伝15:13以下、21:18、12:17参照。後の伝承では、ヤコブエルサレム教会の第一の地位にある。パウロは、ガラ1:18でケパが教団の頭とみていた。14年後のエルサレム訪問・会議の折りには、ヤコブ、ケパ、ヨハネのランクづけになっている(ガラ2:9)。そしてヤコブの厳しい見解の権威が台頭してきて、やがてペテロの、より自由な見解よりもエルサレム教団を圧倒していった、またペテロがエルサレム教団をしばらく不在にしたことがヤコブの教会指導をもたらしたようだ。ペテロとヤコブの間、ヤコブの支持者とペテロのそれとの間に緊張があったことはありそうなことだ。しかしそこからはハルナックのテーゼ2つの復活祭伝承(ペテロと12人への顕現とヤコブとすべての使徒への顕現)をパウロが関連づけたとの帰結は引き出せない。ハルナックのテーゼはパウロによる証人の年代記的な列挙とは明らかに対立する。
 ペテロと12人への顕現についてのパウロの報告は、引き継いだケリグマ的定形に由来するとみてよい。かくてパウロが実際6つの別々の顕現を列挙し、これらの顕現がその順番になっていたのは確かだとみなすことができる。
 これによってペテロの目撃証言の優位性は、確実だ。ペテロへの顕現については他にルカ24:34だけがしるしている「主はよみがえってシモンに現われた」。ペテロは12人の集団の代表であるのみならず、彼らの前でその顕現があったということだ。
 パウロはその顕現の時期と場所については何もしるしていない。どのような状況で復活が起こり、ペテロへの最初の顕現があったかについて一度も述べていない。4節の「3日目に」は「よみがえらされた」につながる、けして「3日目にケパに現われた」とつなげて読むことはできない。その顕現の時と場所は句と句の結合をとおしてのみ解明できる。
 「現われた・オプテー」は、挙げられたお方が天から出現されるという意味合いをもっているから(ミハエリス)、埋葬されたイエスが「3日目に」墓から出現したという考えを排除する。まず確かなのは、すべての顕現がパウロの回心前に起きたこと、またペテロと12人への顕現がケリグマ的定形で語られたことより前にあったことである。
 12人への顕現。この12人は生前のイエスの召命によって弟子となった12弟子・使徒のこと。むろんイスカリオテのユダは死んでいないので数では11人だが、固有名詞的に「12人」とよばれた。彼らはイエスの十字架の死、埋葬に立ち合うことなく、エルサレムから逃亡してガリヤヤにもどっていたと想定できる。この弟子たちのエルサレム逃亡については福音書ははっきりとは言及していないが、ヨハネ16:32「見よ、あなたがたが散らされて、おのおの自分の故郷にもどり、私をひとりだけにする時がくる」。またヨハネ21:2~3において、ペテロが「漁にいく」というシーンは、彼がイエスの死後すでにガリラヤでもとの漁師にもどったことを示唆している(他に偽典ペテロ福音書の終りの部分)。
 12人への顕現がペテロへのそれのどのくらい後に起きたかという問いは、崩壊後の弟子集団の状況がどのように把握するかに応じてで、さまざまに答が出せる。ルカ24:35以下では、キリストはその日の夜には弟子集団に現われた。ヨハネ伝でも、弟子たちはイエスの死後エルサレムにとどまっていた「週の初めの日の夜、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる部屋の戸の鍵をしめていた」(ヨハネ20:19)。続