建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

人口調査  ルカ2:1~7

1999-43(1999/11/23)

人口調査  ルカ2:1~7

 「その頃、全(ローマ)帝国の人口調査の勅令が皇帝アウグストから出た。これは第一回の人口調査で、クレニオがシリアの総督であった時におこなわれたものである。すべての人が登録を受けるために、それぞれ自分の町に帰った。ヨセフもガリラヤの町ナザレからユダヤのべツレヘムというダビデの町に上った。彼はダビデ家の出身、その血統であったからである。身重であった妻マリアと共に登録を受けるためであった。ところがそこに滞在している間に、マリアは月満ちて初子を産み、布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからだ」
 イエスの誕生はアウグスト皇帝のローマ帝国全体の人口調査という世界史的な事件と結びつけられている。皇帝アウグストは、もとオクタビアヌスといい、有名なカエサル(シーザー)の甥その養子で、カエサルを暗殺したブルータス一味を打倒し(前42)、さらにアントニウスクレオパトラ軍を破って(前31)、前27年に皇帝になった(在位後14年まで)。イエスが十字架につけられたのは、次の皇帝ティベリオ(在位14~37の時、ルカ3:1)、ルカは洗礼者ヨハネの活動開始をも「皇帝ティベリオの在位の第15年」と年代づけをした。したがってヨハネの活動開始は、紀元後28~29年。
 「人口調査」。人口調査というのは、ローマ帝国が自分の支配している諸国(オイコノメネー)に税金をかけるための調査で、課税の対象は人とその財産であった(シュタウファー『イエス』)。人への課税には身分登録がなされ、当局のつくった名簿との照合、人相書き、課税の申し渡し、署名、皇帝への宣誓などがなされた。財産への課税(課税査定)は土地(測量を要した)と基本財産の登録を必要とした。ローマ人の徴税官や当局に依頼された人が実務に当たった。納税はローマのデナリ硬貨によった(マタイ22:19)アウグストは、前27年からガリア(今のフランスのあたり)の人口調査に着手したが現地の諸王の激しい抵抗にあい、終了まで40年間もかかったという。
 クレニオ(キリニウス)は、ローマの執政官で東部方面の地方長官を歴任した。前6~4、後6~9、二度、シリア総督になった。クレニオはシリアの都市国家アバメアの人口調査も実行した。この時期にはまだ「ユダヤ総督」はいない。ユダヤ総督はへロデ大王の長男アケラオ(マタイ2:22)がユダヤの支配者から追放された後に置かれた(後6年)。格の点でも、属領のユダヤ総督よりも、帝国のシリア州のシリア総督のほうが上であったし、身分も上位の者がなった(クレニオは執政官)。この前6年には、まだへロデ大王がユダヤを支配していたが、そのへロデ王の国ユダヤに対してシリア総督のクレニオが課税のための「人口調査」をするという事実は、ユダヤがけして完全な独立国でなく、王がいながらもローマ帝国に従属した国でしかなかったからである(シュタウフアー)。
 ルカの記事の人口調査は前者の時期(2節「第一回の」)である。先のシュタウフアーはユダヤでの調査は前7~6年に行なわれたと主張する。後者の時期には「人口調査の時にガリラヤ人ユダ(おそらく熱心党)が民衆を率いて反乱を起こした」(行伝5:37)、とあるから、ガリラヤでのクレニオの調査は激しい抵抗にあったようだ。
 しかしシリアでの(ユダヤガリラヤも含めて)のクレニオの調査は、たった14年間で達成され、これはとても短期間のものであったという。ヨセフスによれば、クレニオの人口調査、徴税措置は後7年に終わった、とあるという。だとすればその開始は前7~6年となる。ルカによれば、人口調査の始まった年前7~6年がイエスの誕生の年になる。他方マタイによれば、ヘロデ大王が死んだ時点で(前4年)イエスはすでにお生まれになっていて(「2才以下の男の子」=2:16)幼児であった。だとすれば、イエスがお生まれになったのは、ほぼ前6年ということになる。
 ルカ2:4では、ヨセフはガリラヤのナザレからべツレヘムに来て、登録を受けるとあるが、これは、ヨセフが祖先の地に、自分の権利のある土地を所有していて、それを登録する、つまり自分の所有の権利を主張し、その代わり税金も払うことを述べたもの。
 ベツレヘム。4節の「ユダヤのべツレヘムというダビデの町」はエルサレムから南方8キロにある古い町。「ダビデの町」とあるのは、ダビデがこの町の出身であったから(サムエル上17:12など)。また、よく知られているように、ベツレヘムは、メシア誕生の地として知られていた。
 ミカ5:2「しかし、ベツレヘムよ、あなたはユダの支族のうちで小さい者だが、あなたのうちからイスラエルを支配する者が出る」=マタイ2:6。つまりベツレヘムはヨセフの故郷ではなく、かれの祖先の地であった。
 「ヨセフもガリラヤのナザレから」は、ヨセフの故郷がナザレであることを言っている(「ヨセフはガリラヤの地方におもむき、ナザレという町に行って住んだ」マタイ2:22)。しかしこのべツレヘムは、単にヨセフの祖先の地という点ばかりではなく、先のミカの預言にあるメシア誕生の地という意味をももつ。ここでは、イエスの「メシア性」は、このべツレヘムでの誕生(この点もマタイ2:1と合致する一一「イエスがべツレヘムでお生まれになった時」)と、もうひとつ「ダビデ家の出身」の子である点によって示されている。ヨセフがダビデ家の出身である点は、1:27「ダビデ家の出身であるヨセフ」。4節の「ヨセフもダビデ家の出身、その血統であった」もマタイ1:1「ダビデの子、イエス・キリスト系図」と合致している。
 5節「身重であった妻マリア」は、直訳では「彼のいいなづけで、身重であったマリア」。1:27では、単純に「ヨセフという人のいいなづけであった」。ここは他に「彼の妻」、「彼のいいなずけの妻」(協会訳)の読み方がある。ここでは、とにかくヨセフとマリアとはすでに同居していること、婚約者と旅することは当時の習慣に反していたことをふまえた訳「妻」がよい(ジュールマン、塚本の訳)。
 次に、なぜ「身重な妻と共に登録を受ける」ために旅したか、については、直接はしるされていなうが、この「勅令」がそれを命じたからである(シュタウフアー)。シリアでは12才以上の女性は人頭税の納税義務、登録義務があったという(ジュールマンの注解)。この人口調査は、病人、老人をも強制して登録させ、子供の年令は納税義務の年令に引き上げられ、老人の年令は引き下げられて納税を強要するような事態をも生んだ。その点では、ローマ帝国は容赦なかったのだ。よくマリアをろばに乗せ、それを引いて旅するョセフの姿をえがいた絵があるが、この旅はけして観光でも牧歌的なものでもない一一百キロ以上の道程、妊娠中の妻を同伴しているから。ローマ帝国の権力は、いわば束の辺境ユダヤガリラヤにまで及び、そこの人々を締め付けたのだ。
 7節のマリアが産んだ「初子」という表現について。出エジ13:12「あなたは、初めに胎を開いた者(初子)はすべて主にささげなければならない」(=ルカ2:32)。「ういご」という表現はイエスが「ダビデの血統のういご」としてメシア継承者でありたもうことをいっている。
 「布にくるんで飼い葉桶の中にねかしてある幼子」は12節では神による「しるし」と言われている。ここでは「布にくるんで」よりも「飼い葉桶」のほうが強調されている。モーセは生まれた時「葦で編んだかご」に入れられていた(出エジ2:3)。飼い葉桶に赤坊をいれるというのは現代人には奇妙なことである。飼い葉桶に寝かされているということが、この幼子の「貧しさや人々からのけ者にされていること」を指し示しているとの解釈は少し弱い。むしろ、素直に読むと、この飼い葉桶の幼子の中に約束に満ちたもの、特別な何かを感じとることができる。救い主、キリストとこの飼い葉桶は、一般に結びつかない。したがって、飼い葉桶の幼子が救い主であるとは(11~12節)一つの逆説であり、神の「しるし」(12節)である。つまり、救い主が飼い葉桶に寝かされている、というのは、神の救いの摂理の不可解さ、この幼子のもつ神秘、秘密をいやまして明らかにするものだ、と思う。