建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

み使いの讚美  ルカ2:13~14

1999-45(1999/12/12)

み使いの讚美  ルカ2:13~14

 「すると突然、一群の天の軍勢がみ使いのところに現われて、神を賛美して言った、
   いと高きところでは 神に栄光を帰すように、
   地上では(神の)み心かなう人々に平安あれ」

 ここの「天の軍勢」は、ユダヤ教の文献、第二エズラ19:6などに「み使い」の意味で出てくる。その他「天の星辰(崇拝)」の意味で、エレミア8:2「人々の骨は彼らの拝んだ日と月と天の星辰(衆群)の前にさらされる」、19:13、歴代下33:3、5でも「星辰崇拝」の意味で「天の万象」とある(いずれも70人訳)。行伝7:42にも「天の星を拝む」。
 ここでは、み使いの軍勢の意味。すなわち、9節での、主のみ使いの出現が「光の出来事」であったのと関連して、そのみ使いのまわりを照らす「光の輝き」が、一群の、おびただしい星群が「天のみ使いの軍勢」として(比喩的に)表現されている。むろん、ここでは、メシアの出現を「光」と見る見解と結びつく。イザヤ9:2「暗闇に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った」、ルカ1:78「高きところより光が私たちを訪れる」。マタイ伝2章では、イエス誕生の時、博士たちを導いた「星」についての言及があった(2:2、9)。ルカではイエスの誕生は「光の訪れの出来事」として語られる。ルカが歴史家としてイエスの誕生を一方で世界史における「人口調査」と関連づけてその「歴史性」を強調し、他方この「光の出来事」で、ルカは「天体的宇宙的な出来事」「黙示文学性」を強調しているといえる。この光の出来事は、視覚の出来事のみではない。言語的出来事(み使いのお告げ)でもある。
 14節はメシア到来の歓呼である(シュールマン)。「いと高きところ」は次の「地」と対で、「天」の言い換え(ヨブ16:19、詩148:1)。ルカ19:38「天には平安、いと高きところには栄光あれ」。
 ここの前半と後半とは、明らかに対句になっている。「栄光一平安」「いと高きところでは一地では」「神に一(み心にかなう)人々に」。
 神の「栄光」は、神の本質としての「光の輝き」(イザヤ6:3、ルカ2:8)であるばかりでなく、神の行為をも示す一一「主の栄光があなたの上に現われる」(イザヤ60:2)。神の救いが実現した時、その神の恵みの行為に対する人の行動は「神に栄光を帰すこと」である。ルカ17:15、18「らい病人は、行く途中で体が清まった。そのうちの一人は自分がなおったのを見ると、大声で神を賛美しながら帰った」(ここの「神を賛美する」が「神に栄光を帰す」)。ルカのここでは、神の栄光はみ使いたちの前に明らかにされた。そして、み使いは「神を賛美する」=13、21節。したがって、このみ使いの神賛美、あるいは、14節前半の「神に栄光を帰すこと」は、神の救いの実現の開始が前提とされる。それがメシア到来一一救い主誕生である=11節。訳も「栄光あれ」よりも「栄光を帰すこと」がよい。ここには動詞はないが、「である」という動詞の現在形が省略されている。だとすれば、この14節全体は、一般的な神賛美ではなく神による救いの宣言、しかも喜び(「大いなる喜び」10節)、歓呼の宣言である(イザヤ9:2、52:7)。神に栄光を帰すべき出来事がすでに起こったことを言っている。
 「地上では平安」の「平安=平和=エイレネー」は、今や地上に「実現した」平安である。平安は戦争や抗争の除去以上のことであり、1:79「(高きところよりの光は)私たちの足を平和(平安)の道に導くであろう」、救い、罪の赦し(1:77)、光(1:78)を意味する。みどり児はイザヤ9:5が預言した「平和に君」であり、「彼の支配と平和(平安)は大いなるもの」(イザヤ9:7)。「キリストは私たちの平和である」(エペソ2:14、17)。
 「み心にかなう人々」の「み心にかなう」は、「善意をもった」(ピリピ1:15、第ニテサ1:11)という意味と「御心にかなった」(マタイ11:26、ルタ一訳)と二つの意味がある。ラテン語訳、バウアーの辞典は、「善意の人びと」と訳す。
 ここをいずれに訳すかは長い間論議されたようだが、「(神の)み心にかなう」という表現が、戦後すぐに発見されたユダヤ教の一派クムラン教団の「死海文書」に出ていることによって決着がついたという。「死海文書」にある「感謝の詩篇」の4:32に「(神の霊によって初めて)万物はみ心にかなうすべての子らに対する大いなる憐れみを知る」11:9「あなたにかなう子らには憐れみがある」などに、この「エウドキア=み心にかなう人々」は由来する(シュールマン)。ここでは、 この「み心にかなう人々」は「神にすでに受け入れられた、み心にかなう人々」(意味が狭い)ではなく、むしろ「神の自由な恵みの選びに基づいた善意の人々」の意味(意味がかなり広くなる)である。
 この用語は10節の「民全体」のもつ「制約・限定」を打破するものである。救いはここでは最早イスラエルの民全体に告げられるのではなく、ーーイスラエルという民族的な、ユダヤ教という宗教的な枠を超えた、神の御心にかなう人びと、善意の人々、に与えられる(2:31「すべての民」)。 光の輝き(9節)、み使いのお告げ(10~12)、救いの到来の宣言と歓呼(14)は、救い主誕生の、普遍性「異邦人の啓示の光」(2:32)を告げているばかりでなく、12節の「しるし」が意味するものをも解明しているーーこのみどり児の誕生をもって、今や、人々は「神に栄光を帰すこと」ができる。「み心にかなう人々、善意の人々に、平安が与えられた」からである。