建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

復活と希望 パウロの復活理解4

2000講壇2(2000/4/16~2000/7/30)

復活と希望 パウロの復活理解(六)
 ヨハネ2:3のカナの婚宴では母の無理解を述べている。7:3以下では、イエスの兄弟の言葉「ここから移って、ユダヤへ行きなさい。あなたの弟子たちもあなたの業をみることができるように」としるしているが、イエスエルサレム行きに家族が同行したとは書かれていない。行伝1:14ではイエスの母と兄弟が早い時期に教団に入った可能性が高いことをうかがわせる。ヤコブだけでなく、他の兄弟らも後に教団に属した、これは第一コリ9:5「使徒たちや主の兄弟たちやケバのように姉妹である妻を連れ歩く権利が私にはないのか」によって確かめられる。ヤコブについては行伝12:17「このこと(へロデ・アグリッパ王の牢獄からのべテロの解放)をヤコブや兄弟たち[キリスト者]に知らせなさい」、15:13の、使徒会議でのヤコブの演説などに述べられている。この三つの箇所は、すでに原始教会での彼の指導的役割を前提にしている。ヤコブが早い時点で最高の地位に到達したことは、回心の3年後のエルサレム訪問の際、パウロによって、ペテロにつぐ第二位の人間としてまた14年後(後48年)には第一位の人間として述べられていることから明らかだ。
 ヤコブへの復活顕現はパウロの回心前であるが、その顕現は復活祭の第一週のことでも、おそらく最初の月でもなかったと推定できる。その顕現を時間的に復活祭とパウロの回心の中間に設定しようとすることは、とにかく第一コリ15章とは矛盾しない。

すべての使徒たちへの顕現
 第一コリ15:7「さらにすべての使徒に現われた」は解釈が難しい。ハルナックのテーゼは「すべての使徒」への顕現は5節の「12人への顕現」と同一のものであって、パウロによって引き継がれた二つの敵対的な伝承が結合によって成立したという内容である。
 二つの顕現を仮定しても、同じグループに二回の顕現が与えられたと解釈することはできない。原文のパシン(同時に)をパリン(再び)に読みかえて「もう一度彼は顕現した」との読み方はいかなる根拠もない。「すべての使徒」で示されている集団はあまりに広く把握してはならない。とにかく7節の眼目は限定的な集団である。他方、この集団あまりに狭くとらえることもゆるされない。カール・ホルは「すべての使徒」を12人とヤコブとみなした(グラース)。しかしそのような解釈はかなり広い集団を示唆する「すべての使徒」にとっては、小さすぎるようだ。まず《主の他の兄弟ら》をこれに加えるべきだ。パウロが第一コリ9:5「使徒たちや主の兄弟らやケパ」で「主の兄弟ら」をただちに使徒に結合せず、両者を並行的にあげている。しかし使徒に属すケパは特別に名が出ている。ホルが七節の使徒にあげているヤコブは「主の兄弟ら」に含まれる。
 おそらく《バルナバ》は、7節のいう使徒の集団に属す。ロマ16:7の挨拶のリストでパウロは二人のよく知られていない、使徒の中で際立った(わが同労で同囚の、アンドロニコスとユニアス)をあげた。この二人は第5番目の顕現を与えられた使徒集団に属していたと推定できる。パウロはこの人々を彼より前に、おそらくエルサレムキリスト者になったとはっきり述べている。「彼らは私より前にキリストを信じていた」(同)。
 ペテロと12人への顕現が《ガリラヤ》に基づき、その後のすべての使徒への顕現が《エルサレム》に基づくとの推定が正しいとそれば、これらの顕現は、二度にわたる別々の状況を前提としている。顕現の時点ではむろん教団はまだ存在していない。ペテロと12人が顕現において伝道の委託がなされ、彼らが復活したイエスについて宣教・説教したことで、はじめて教団は成立した。 続

復活と希望 パウロの復活理解(七)
 これに対してキリストがすべての使徒に顕現した時、教団はすでにかなり多数になっていたようだ。その中にヤコブだけでなく、新しい人々が登場し、やがて指導者集団を成立させた。ペテロやヨハネなど12人は、全員が同じような仕方で関与したわけではいが、決定的な役割を演じた。パウロが7節で「さらにすべての使徒に」とはっきり言っている、その指導者集団にある日、キリストは顕現された。それがどのような状況であったか、誰がこの集団に属していたか、この集団にとってこの顕現がどんな意味を持つていたかを、私たちは正確にはほどんと知ることができない。
 パウロがこの顕現にあずかった者を「使徒」と名ずけたが、彼らのうちの数人は、この顕現に基づいてのみはじめて、指導的な地位を得たようだ。というのはパウロはこの顕現以前に使徒と呼ばれた人々が主を見たと表現しようとしたのではなく、むしろ後になって「当時主を見た人だけが使徒として知られるようになった」と表現しようとしたからだ。
 パウロは自分の使徒職を本質的に、パウロが主を見たという点に見出していた(第一コリ9:1、15:8以下)。しかし主を見ることだけが使徒とするのではなく、むしろ使徒となるにはなおも特別の委託がなされる点は、500人の兄弟への顕現が示している (彼らは何の委託も受けなかった、ルカ24章のエマオの弟子クレオパらも)。すべての使徒への顕現はとにかくパウロの回心以前に起きた。

パウロへの顕現
 「ところで最後に、キリストは月足らずの者同然の私にも顕現された。私は使徒のうちで最も小さい者で、使徒と呼ばれるに値しない。それは私は神の教団を迫害したからだ。しかも神の恵みによって現在の私はある。また私に対するその恵みは無駄にはならず、むしろ私は彼らのすべての者よりも多く働いてきた。しかしそれをなしたのは、私ではなく、むしろ私と共にある神の恵みである」(8~10節)。
 パウロはダマスコ途上で出会った顕現(行伝9章)を考えている。彼はこの8節以下ではヘレニズム的な黙示的体験「幻・オプタシアや黙示・アポカルプシス」(第二コリ12:1、7)は考えられてはいない。眼目は彼の使徒職を根拠づけている顕現である。教団を迫害したとの言及をもって、彼は自分の生涯における大きな転換を示している。「パウロが彼ら(コリント教会)に伝達したところのものは、実際また自分で直接に手に入れたものにほかならない。…そして同時に復活した方が一人の人間に現われた時には、どいう様相を呈するかを、彼自身の実例をもって彼らに実物教示したのである。…パウロは自分が単なる(伝承の)継続者ではなく伝承の《源泉》であり、《創始者》であることもよく知つていた」(バルト「死人の復活」)。パウロがこの顕現を第一コリント15章を書いた時点と時間的に大きな距離があるとみなしたことは、それほど確実なことではない。「月たらずの」は遅く生まれたではなく早く生まれたっまり「月足らず」の意味であるから。パウロがこの言葉で自分の敵からなされた誹謗の意味で言っているかどうかはこれ以上吟味する必要はない。この場合月足らずの生まれは、彼の使徒職への召命を示すのみならず、彼の働き一般をもいっている。とにかくパウロは、彼をそのような月足らずでなした自分の過去、教団の迫害の意味をはっきり表現した。それゆえ彼は「自分を本来使徒と呼ぱれる値打ちのない使徒の中で最も小さい者で、しかも神の恵みによって現在の自分がある」と述べたのだ。パウロは自分へのキリスト顕現を「最後のもの」とみなし、その顕現が決定的に最後であって顕現自体は終ってしまった、と述べた。

復活と希望パウロの復活理解(八)
 パウロがかってキリスト者に対する迫害者であった点について(9節、ガラ1:13)、二つのポイントをふまえたい。第一に、パウロが《エルサレムを舞台にして》キリスト者迫害をしたとの行伝8:1、3、9:13などの記事の内容は、パウロ自身によって否定されている(ボルンカム「パウロ」)、「私はキリストにあるユダヤの諸教会には個人的には知られていなかった」(ガラ1:22)。したがってパウロキリスト者を迫害した地域は、ユダヤ以外の地つまりシリヤや小アジアであったろう。
 第二に、ダマスコ途上で回心してキリスト者となった記事、行伝9、22、26章にある復活のキリストとの出会いについて、彼の同行者らは「出現した方の声は聞いたが、誰も見えなかった」(9:7、22:9では彼らは「光は見たが、声は聞かなかった」)点から考えて、「黙示的幻視・幻聴」の体験であったといえる(グラースなど)。パンネンベルクは第一コリ15章とこの行伝9章を特別に重視した。
 パウロ自身はキリスト顕現について「私を母の胎から選び、恵みによって私を召した方は、気が向いた時、御子を私に啓示された」(ガラ1:16)「私は主イエスを見たではないか」(第一コリ9:1)と述べている。
 さらにパウロが教会の迫害者から180度転換してキリストの宣教者となったことについてこう述べた「かつて私たちの迫害者が、かつて粉砕したその信仰を今では宣教していると、彼ら(ユダヤの諸教会)は聞いて、私のゆえに神を讃美した」(ガラ1:23)。続