建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

パウロの復活理解5

2000講壇2(2000/4/16~2000/7/30)

パウロの復活理解(九) 
 先の後期ユダヤ教の「死人の復活」をふまえて、第一コリント15:12~22を取り上げたい。
 「しかしキリストが死人の中からよみがえらされたと宣教されているのに、あなたがたのうちの数人が(死人の復活は存在しない)といっているはどういうことか。もし死人の復活が存在しないならば、キリストもよみがえらされなかったのだ。キリストがよみがえらされなかったとしたら、その場合には私たちの宣教は空疎であり、あなたがたの信仰も空疎である。また私たちは神の偽証人となってしまおう。私たちは神に逆らって、神がキリストをよみがえらせないのに、神はキリストをよみがえらせたと証言したからだ。もし神がキリストをようがえらせないならば、死人はよみがえらされないのだ。というのは死人がよみがえらされないならばキリストもよみがえらされないからだ。しかしキリストがよみがらされなければ、あなたがたの信仰はいたずらなものであり、あなたがたは自分の罪のうちにいることになってしまう。したがってキリストにあって眠りについた人々も滅びてしまったことになる。もし私たちがこの世にある間だけキリストに希望をいだいているとしたら、私たちはすべての人間よりも哀れなものとなってしまおう。
 しかし今やキリストは眠りについた人々の初穗として死人の中からよみがえらされた。死が一人の人[アダム]をとおして来たのだから、死人の復活も一人の人[キリスト]をとおして来るのだ。というのはアダムにあってすべての人が死ぬように、キリストにあってすべての人が生きたものとされるであろうからだ」(コンツェルマン訳)。
 12節「キリストは死人の中からよみがえらされた」の「死人たち・ネクロイ」には冠詞がついていない。エレミアスによれば、パウロは一貫して冠詞(ホイ)をつけない「死者たち」は死者一般を意味し、他方冠詞をつけた「死者たち」はすでに死んだキリスト者を意味するという。「キリストに属す者たち・《死人たち》」(23節)「どういうふうに《死人たち》は復活するのか」(35節)「《死人たち》の復活もこれと同じ」(42節)「《死人たち》は朽ちないものによみがえり」(52節)
 「死人の復活を拒否した」コリント教会の数人の者は、どのような立場に立っていたのか。彼らについてはさまざまに解釈されている(コンツェルマンの注解)、
 パウロが展開している主張からだけでは、彼の論敵の立っている宗教的な立脚点はかならずしも明らかではない。
 歴史をさかのぼって二つの解釈をみたい。
 ルタ-の解釈は、パウロの論敵は「死人の復活を否定したが、それだと、この否定によって神も聖書のみ言葉も、使徒の宣教も教会の存在もすべて否定する結果になるが、しかし神も教会も否定できない。それゆえ論敵の「否定は否定されなければならない」いわば「否定の否定による駁論」がパウロの批判だとみた。
 「否定されていることが否定によって論証されるということは、異邦人の間では論拠としては弱い。…『死人は復活しない。だからキリストも復活しなかった』。パウロの論敵らは否定することをもって証明しようとしているわけだが、パウロは何をしようとしたのであろうか。…パウロが《弱い仕方で》証明しようとしたことは明らかだ。…キリストが復活しなかったのならば、私たちも復活しないと。キリストが復活したとしても、彼は一人の人にすぎないのだから、すべての人が復活するということにはならない。それゆえパウロはこの論拠を明らかにして、部分と部分を互いにつなげて、不可能なことにここで結論を出す。」(1531、「第一コリント書講解」徳善訳)

パウロの復活理解(一〇)
 「《否定されていることが否定によって論証される》ということは、異邦人の間では論拠としては弱い。…『死人は復活しない。だからキリストも復活しなかった』。《彼ら》[パウロの論敵ら]は否定することをもって証明しようとしているわけだが、パウロは何をしようとしたのであろうか。…パウロが《弱い仕方で》[否定の否定の論理で]証明しようとしたことは明らかだ。…キリストが復活しなかったのならば、私たちも復活しないと。キリストが復活したとしても、彼は一人の人にすぎないのだから、すべての人が復活するということにはならない。それゆえパウロはこの論拠を明らかにして、《部分と部分を互いにつなげて、不可能なことにここで正しく結論を引き出す。この条項を否定しようとする者は、それ以上のものを否定しなければならない》。すなわちあなたがたが信じていること、あなたがたが聞いたみ言葉が正しいこと、われわれが使徒であって真理を説教していることが本当であること、神が真実であり、神は神であられることなども否定しなければならない。《すべてはこのようにつながっている》。…パウロは、神、み言葉、使徒たち、信仰などを互いに結びつけてどの一つも偽りとすることができないようにする。こうしたものは偽りとすることができない。それだから死人が復活るすということは真でなければならない。なぜならこれは使徒たちやイエス・キリストによって説教され、キリスト教会によって信じられ、受け入れられてきたからである。…使徒たちの説教や信仰が正しいということが確かであるのと同様に、死人の復活もまた確かである。…
 もし神が偽ることはないということが確かであれば、私が100年地下に横たわっていても、死人の中から復活するであろうことも確かである。復活は神の前では、たとえあなたがすでにここに横たわって、臭いはじめ、蛆が喰いはじめていても、復活がすでに起きてしまったかのように確かなものである。…『死よ、私はあなたを食い尽くし、あなたの死となるであろう[ホセア一三・一四参照]。あなたが飲み込んだものを私は生かそう。そうでなければ、私は神でないことになろう』と言われる。…ここに横たわっている死人は復活するであろう、それは確かである。これを疑うならば、それは最大の罪である。なぜならこのような罪は、まさに神やキリストを否定し、福音や洗礼や礼典を撤回し、私は神やキリストを信じないというのと同じだからだ。…パウロに耳を傾けよう。自分の体が太陽のよりも美しく復活するであろうことを否定する人は、キリストの復活を否定し、さらに神が真実であられ神であられることを否定するものであると。
 《もし死人の復活がなければ、キリストも復活しなかったであろう。しかしこれは不可能であり、誤っている。それだから、死人の復活はないというも不可能であり、誤つている》。もしキリストが復活したのであれば、われわれは復活するであろう」(「第一コリント一五章講解」1533、徳善義和訳)。
 さすがにルタ-は「パウロの批判の論理」すなわち「否定の否定による論証」をよくとらえている。
 第二に、カール・バルトの「死人の復活」(1924)の解釈をとりあげたい。
 バルトはパウロの論敵の立場をこうみている「彼らは少なくとも表面ではキリストの復活を肯定している。彼らのもとではこの(復活)信仰にいかなる《原理的》意義も、生き死にを賭けるほどの意義も付されてはいない。復活信仰は、やむなくば無くて済ましうえるものだったろう。それは《一部品》ではあろうが、けして《全体》(ではない。彼らはすべてをそこから考えていない」(山本和訳、強調バルト)。続