建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

復活と希望 パウロの復活理解7

2000講壇2(2000/4/16~2000/7/30)

パウロの復活理解(十三)

 「私たちはみな眠りにつく[死ぬ]のではない。終りのラッパの際して、たちまち、瞬時に、みなが変えられるであろう」(第一コリ15:51)。また「朽ちるものが朽ちないものを着る」「死ぬものが死なないものを着る」(53~54節)の表現からは「死をくぐりぬけること」は前提とされていないようだ。
 ブルトマンは、パウロの論敵らが(グノーシス主義的見解)をもっていたと解釈する。またコリントの教会員が『死によってすべてのものが終ってしまう』と教えた点で、パウロが彼らのことを誤解していた、とみる。
 コリント教会のグノーシス主義に言及されているのは、この第一コリ15章よりも、第二コリント5:1以下である。
 「私たちの地上的な幕屋がこわされると、天には神からの住居、手によって造られたのではない、永遠の家を私たちは得る。それゆえ私たちはうめいている。天からの住居を着たいと憧れ求めているからだ。(地上的な)衣服を《脱いだ》あとも、私たちは《裸でいる》ことにならないことは少なくとも正しい。私たちは現在の天幕で苦しみでうめいている。それを脱ぎたいからではなく、むしろ上から着たいと欲しているからだ。それによって死ぬべきものが生命に飲み込まれるためである。しかし私たちにこれを仕上げてくださるのは神である。神は私たちに御霊という担保を与えられたのだ」(1989、ブルトマンの注解の訳)。
 第二コリ5:1以下において「地上的幕屋・住居・オイキア」(1節、二回)「天にある住居・オイコドメー」(2節、二回)はいずれも「体・ソーマ」(6、8節)を示している。人の身体を「天幕」と比喩的に表現している。パウロと論敵、すなわちコリント教会の「グノーシス主義者」(ブルトマンの注解)との対決点は、この3~4節の部分で先鋭化するようだ。「ここでは明らかに地上的な身体・ソーマからの解放としての《裸であること》へのグノーシス主義的な希望は、天の被服(不死のソーマ)を上から着るへの[キリスト者の]希望と相関概念をなしている」ブルトマン注解。
 「私たちは(地上的な)衣服を《脱いだ》後も《裸でいることにはならない》だろう。私たちは現在の天幕の中で苦しみにうめいている。私たちが現在の天幕[地上的な体を]を脱がされたいと欲しているからではなく、むしろ(天的な衣服を)上から着せられたいと欲しているからであり、それは死ぬべきものが生命に飲み込まれるためである」(3節の通常「着る」の読み方をブルトマンは「脱ぐ」といっている写本の読み方を採用する)。パウロはむろんここでグノーシスの説「人間は死において地上的な衣服(体)を脱いで、裸となる」すなわち身体から解放された「裸」、霊魂的、脱身体的存在として昇天して救いにあずかる、との見解と対決している。ブルトマンによれば、パウロはコリント教会のグノーシス主義の言表から、グノーシス主義者が「地上的な体を脱がされることへの切望と地上的な体からの離脱・裸への希望のみを聞き取ったようだ」。とにかく「裸」という中間状態に対してパウロは不安を感じていない。パウロは中間状態・裸であるこをまったく考えていない。来臨の前の時期では地上の身体を《脱がされること》は死に際して起きるが、天的な被服・新しい体を《着ること》は来臨の際にはじめて実現するはずである。したがってここでの《裸であること》は墓の中で眠りについた人のことだと想定できよう。
 裸であることに希望をいだいているグノーシス主義者に対して、パウロは第二コリ5:7で自分たちは「信仰のほかに《見ること》を所有している」と主張した彼らに反駁した「私たちは見ることによらず、信仰に歩んでいる」と。

パウロの復活理解(十四) 
 グノーシス主義者は「身体を脱いで、裸・霊魂的存在でいること」に希望をいだき、それを切望している(「地上的な体を脱がされたいと欲している」)、しかしパウロは真のキリスト者が、身体からの解放、非身体的霊魂的存在でなく、天的な衣服すなわち《新しい体》を待ち焦がれる、とみた。このようにグノーシス主義者は地上的、天的「身体性」を敵視し、身体性を自己の霊魂的存在の救いをはばむ障害物とみなした。ブルトマンのこの注解を第一コリント15:12以下のパウロの論敵の立場とみなすことができる。
 シュミタルスは《コリント教会の状況についてパウロは誤解していた》と推定して、彼らの教えを《グノーシス的二元論》とみた。特に46節に依拠してである。「初めにあったのは《霊的なもの・プニュマティコン》ではなく、むしろ《魂的・地上的なもの・プシュキコン》であり、後から《霊的なもの》がきた」。他方《肉・サルクス》は過ぎゆくものであるばかりでなく、卑しいものである。そしてグノーシス主義者は、いかなる希望も必要とはしない。この意味で彼らのスローガンは「死人の復活は存在しない」(12節)と定式化された。その結果キリストの肉(「十字架につけられたキリスト」(1:23)も拒否される、とみた(1965の論文「コリント教会のグノーシス」、コンツェルマン注解)。
 しかしながら論敵は、キリストの肉に異論を唱えたり、キリストの復活、あるいは復活一般にはではなく、むしろ「死人の復活」にだけ反対した。「彼ら」は宇宙論的なグノーシスからではなく、むしろ挙げられたキリストとの熱狂主義的結びつきから自分たちの救済論を得ていた(コンツェルマンの注解)。
 パウロが論敵の見解をきちんと把握できずに「誤解していた」と推定できる。
 マルクスセンの解釈。論敵らは二元論的人間論に固執した《熱狂主義者たち》で、自分たちの魂が救われていると思い込んでいる。「ところで復活は天国へと旅立とうとしている《魂を肉体の牢獄》(プラトン「パイトン」)へと引きもどしてしまうものとなる。したがって彼らにとっては《復活を期待することがまさしく絶望の表現》となってしまう」。非身体的魂を再び肉体へと閉じ込めることになるからだ。「死人に代わって洗礼を受ける」(29節)いわゆる代理洗礼の意義について、パウロは「死人の復活」がないならば無意味だとみなすが、論敵らは「死んだ体のうちにある霊魂の救済のために」[通常は死によって魂は自分を閉じ込めていた肉体から解放されると考えられるから「死んだ体にある魂」は想定しにくいものだが]死人のための代理洗礼も有効だと考えたようだ(「新約聖書緒論」渡辺康麿訳)。  この項完