建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ダマスコ体験1  使徒行伝9:1~9

2000-15(2000/5/7)

ダマスコ体験1  使徒行伝9:1~9

 「さてサウロは主の弟子たちに向って、なお威嚇と殺害とに息巻いて、大祭司のもとに行って、 ダマスコの諸会堂への書簡を求めた。彼がその地で『道』に帰依する者たちを見付ければ、男であれ女性であれしばってエルサレムに連行するためであった。
 その途上で、彼がダマスコに近づいた時に起きたことである。突然、天からの光が彼を照らした。そして彼は地に倒れて『サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか』という声がするのを聞いた。彼は言った『主よ、あなたはどなたですか』。すると『私はあなたが迫害しているイエスだ。さあ、立ち上がって街に入りなさい。あなたがなすべきこと語られよう』。彼とともに旅をしていた従者たちは、唖然としてそこに立っていた。彼らは声は聞いたが、誰もみえなかった。サウロは地から起き上がった。しかし目は開かなかった。彼はものが見えなかった。彼らは彼の手を引いて、ダマスコに連れて行った。彼は三日間目が見えず、飲食もしなかった」。
 この話はほかに22:3以下、26:1以下でも述べられている。
 1節は、26:9以下から解明される。サウロはパウロのへブル名。「主の兄弟」は、むろんキリスト者の意味。2節の「道の帰依者」も同様の意味。
 エルサレムの原始教会にはアラム語を話すキリスト者ヘブライストと、ギリシャ的な名前をもつステパノ、ピリポなどギリシャ語を話すキリスト者・へレニストの間にある種の対立が生まれた(6:1以下、律法に対する態度であろう)。そしてユダヤ教当局による迫害が、このへレニストたちに対して集中的に襲った(8:1以下)。ステパノの殉教(7章)、ピリポのエルサレム逃亡である、8:1。逃亡したピリポらによって、福音ははじめてユダヤの国境を超え、サマリア伝道が始まったとルカは述へている。行伝8:3、7:58によれば、パウロエルサレムにおいてキリスト者を迫害し、かつステパノの石打ちの場にも居合わせたとある。しかしパウロ自身は、ガラ1:22で、「ユダヤの諸教会には顔を知られていなかった」と明言しているので、パウロの言葉を信用すべきで、行伝記事の方が正確さに賭けると見て取れる。ボルンカム「パウロ」。
 9:1~2の内容が論争されている。それは、ユダヤ教当局、サンヘドリンがユダヤの境界・領域を超えて、ローマのシリア州に属すダマスコのユダヤ教の会堂に対して裁判権を及ぼすことができたかという問題である。パリサイ人パウロは会堂に集まるユダヤ人会堂に認められていた処罰の権限(むち打ち、追放、除名など)の枠内での行動を当局から承認されたと解釈されている(ボルンカム)。パウロキリスト者迫害については、第一コリント15:8以下。
 3~6節。3節の「突然天からの光が彼のまわりをてらした」。(1)この「光の出現」は復活顕現を意味する。復活した方は墓から出現するのではない。この光でパウロは3日間目が見えなくなった。これはパウロへの顕現の特徴である。(2)復活した方は「天に上げられた」(行伝1:9、ロマ8:34など)それゆえその方の出現・顕現も天からの「挙げられた主の顕現」である。復活を即高挙とのとらえかたは聖書的である。ガラ1:12でこの顕現を「神は御子を私のうちに啓示された」とよんだ。(3)顕現した方は「霊の体なるイエス」である(第一コリ15:44)。「私は主イエスを見たではないか」第一コリ9:1。(4)そしてこの出来事は聴覚的な出来事であった。彼はイエスの声を聞いたのだ(以上の4つまとめ方はパンネンベルクのもの)。26:14によればその声は「ヘブル語」だった。さらに(5)26:16~18によれば、この復活顕現の理由はこうある。
 「私があなたに顕れたのはのは、あなたを仕える者として選んで、あなたが見たこと、あなたに示されることの証人とするためである。すなわちあなたをこの民と異邦人(の迫害)から救い出し、彼らにあなたを遺わして、彼らの目を開けて、彼らが暗闇から光へ、サタンの力から神へと立ち帰り、私への信仰をとおして、罪の赦しときよめられた人々の間で分け前とを受けるためである」。
 このポイントは、復活顕現の本来的内容、神への奉仕、復活の証人、異邦人への派遣、使徒職への召しを告げている。22:14~15、ガラ1:1参照。
 さらにこの出来事自体は「黙示的幻視・幻聴」という特徴をもっている。9:7「一緒に旅してきた従者たちは唖然としてそこに立っていた。《声は聞いたが誰も見えなかった》。他方22:9には「私の連れの者たちは《光は見えたが、私に話された方の声は聞こえなかった》」とある。ヘンヒェンは9:7について注解している「多くの個別的叙述はこの顕現の客観性を確かなものとしている。他方では目撃証人らはこの啓示に関与することをゆるされていない。ルカは22:9でサウロの連れたちは、光は見たが声を聞いていないと述べているが、そうだとすると言表の意味でなく表現方法が変わっていることになる。そのような場合には(その出来事を)史実的だとみなすべきではない」。
 パウロが見聞きしたことを連れの者は知らない。このような出来事は「黙示的幻視・幻聴」とみなすべきで、決してデッチあげた事件とみなしてはならない。