建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ダマスコ体験2  使徒行伝9:10~18

2000-16(2000/5/21)

ダマスコ体験2  使徒行伝9:10~18

 「さてダマスコにアナニアという一人の弟子がいた。そして主は幻で彼に語られた、『アナニアよ』。アナニアは言った『主は、私はここに』と。主は言われた『立って、<直線の通り> に行って ユダの家にいるタルソ出身のサウロという名の人を探しなさい。見よ、彼は祈っていたが、(幻で)アナニヤという人が入ってきて、自分に手をのせると目がまた見えるようになるのを見たのだ』。するとアナニヤは答えた『主よ、私は多くの人からこの人のことを聞きました。エルサレムであなたの聖徒に対してどれほど多くの非道なことをしたか。またここでも彼は祭司長らから全権をえて、あなたの名を呼ぶ者をすべて拘束しようとしています』。すると主は言われた『行け、その人は諸国民と王たちとイスラエルの子孫らの前で、私の名を担うなため私に選ばれた器であるからだ。その人が私の名のゆえに多く苦しみを受けなければならないかを示すつもりだ』。
 アナニヤは行って、ユダの家に入り、サウロに手をのせて言った『兄弟サウロよ、主が私を派遣されました。あなたが来る途上であなたに顕れたイエスが。それはあなたがまた目が見えるようになって活動し、また聖霊に満たされるためです』。するとただちにサウロの目から、うろこのようなものが落ちてまた見えるようになった。彼は立ち上がって、洗礼を受けた。そして食事をとってまた元気付いた」。ヘンヒェン訳

 10節の「弟子」は キリスト者の意味(13節では「聖徒」、12節「あなたの名を呼ぶ者ら」)。パウロの回心の時期、後33~35年ころにどのようにダマスコのキリスト教会が成立したかは明らかではない。そこのリーダーである(パウロに洗礼をさずけたことからわかるが)「アナニヤ」については、22:12では「律法的に敬虔な、そこに住むユダヤ人すべてに評判がよかった」とある。だからギリシャ語を話すいわゆるへレニストではあるが、信仰理解の点では、エルサレム教会のユダヤキリスト者・へブライオス、つまり律法に忠実なヤコブ派のキリスト者のイメージの人。
 「幻・ホラマ」は、夢とも声とも述べられていないが、ここでは黙示的幻聴であろう。特に、アナニヤとパウロの双方に同じ内容の幻が示された点でここは「二重の幻」である。
 13節の「直線の通り」はダマスコの街を東西に通っている通りらしいが、銀座通りのようによく知られたものという、ヘンヘン。アナニヤは直接パウロを知らないが、エルサレムから逃れてきた「多くの人」から(ダマスコの教会は地元の者とこれらのェルサレムから逃亡してきた者、双方のユダヤキリスト者でできたようだ)迫害者パウロのことを聞いて知つていたこと、またそれゆえ彼がパウロを恐れていることを示している。さらにアナニヤへの幻は11節、パウロへの恐れは必要ないことを示した。また「パウロ祈りをなした」ことでパウロがすでに心から回心したこと、その彼を受け入れて彼に手を乗せて一時的な目のくらみの癒しをなすように幻の中でイエスは命じられた、13~14節。さらにパウロも幻ですでにアナニヤのことを知らされている、という。12節、アナニヤはまだ3日前に起きたパウロの回心について知らないようだ。
 15節、パウロがダマスコに来たのは、そもそもキリスト者「主の名を呼ぶ者らを逮捕・連行する」ためであったが、今や前代未聞の転換のことが起こった、すなわちパウロは「異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に、主の名を運ぶために選ばれた器」であると。パウロが主の名を呼ぶ者らを苦しめる、というのではない。逆にパウロが「主の名のゆえにどれほど苦しまねばならないかをキリストが示される」という、16節。パウロに対するユダヤ人による迫害の預言である。
 17~19節、アナニヤの恐れ、わだかまりはもはや消え去った。アナニヤは指示のとおり、ユダの家に入り、パウロに会った。彼はパウロキリスト者仲間として受け入れた「兄弟サウロよ」。そして自分を派遣したのが、パウロをダマスコ途上で出会ったイエスであることを告げた、そしてパウロの目を癒しかつ聖霊を受けさせるために、彼に手をのせた、17節。癒しは一瞬にしてなされた、18節。目の癒しの記事はトビア11:12と関連があるようだ。パウロはただちに洗礼を受けた。他のキリスト者が居合わせたとはのべられていないので、洗礼を授けたのはアナニヤ自身である。洗礼の場所は記されていないが、ユダの家の浴室であろうと、ツァーンは注解したという。
 19節前半、パウロははじめて食事をとって再び元気になった。ルカの教会では洗礼志願者は洗礼の前に断食の時をもったと推定できる。ヘンヘン。
 この箇所全体1~19節はいわゆるパウロの回心の記事である。キリスト者を迫害した者が180度転換して今度はキリストの宣教者・使徒「主の名を運ぶ存在」となった。これは他に類例のない劇的な回心である。「かつて自分たちを迫害した者が、かつて粉砕しようとし信仰を今では宣教している、と彼ら(ユダヤの諸教会)は聞いて、私のゆえに神をさんびした」ガラ1:23~24とあるとおりである。またダマスコ途上での復活のキリストの顕現が、真実であり、真性であったことが、顕現に出会った者の「存在・実存の劇的変貌」からみてもわかる。復活顕現はそれに出会った者を決定的に替えてしまう典型がここにある。特別の神体験をした者やそれを聞いた者たちが、そのことで体験者自身に注目して驚嘆するのではなく、そのような出来事をなされた神へと目を向けて「神讃美をする」これこそ真の神体験である。