建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

キリスト者の死2  第二コリント5:14~21

2000-26(2000/7/23)

キリスト者の死2  第二コリント5:14~21

 死は罪の報いとしてあらゆるものとの関係喪失を意味するから、呪われた死からの解放は人間の 「関係回復」によってもたらされよう。これと関連して「あるものとの関係喪失を起こさせない行為」が存在すると考えられる。
 「私があなたを愛するということは、あなたは永遠に死なない、ということである」(マルセル「現存と不減」)。この「あなたは永遠に死なない」は、相手の存在の不滅・不死を意味するものではない。そうではなく相手との「絆、関係の不滅」を意味している。その人がたとえ死んでもその人との関係、絆は断たれない。だからその人は「永遠に死なないのだ」と。どうやら関係回復も「愛のテーマ」と関連するようだ。
 パウロは「神による和解」について語る。
 「私たちはこう判断している、一人の人がすべての人に代わって死んだということは、(結果的に)すべての人が死んだことになる。そして彼はすべての人の代わりに死んだのだ。それはすべての人が(本来的な)生に到達させられるためであり、もはや自分自身に生きるのではなく、むしろ自分たちのために死んで、復活させられた方に生きるためである。…誰でもキリストにあるならば、その人は新しい被造物である。古きものは過ぎ去った。見よ、一切が新しくなった。ところですべては神から来る。神はキリストをとおして私たちをご自身と和解された。私たちに和解の職務を与えられた。キリストをとおしてこの世と和解された方はほかでもなく、神である。神は彼らの罪科に目をとめられることなく、和解の説教に私たちを任命された。…神は罪を知らない方を私たちのために罪とされた。それは私たちがキリストにあって神の義となるためである」(第二コリント5:14~21、ブルトマン訳)。
 この神による和解は、神の愛の行為であった。これはイエスの十字架において示された神の行為である。イエスの十字架において「神は沈黙されていた」わけではない。イエスの十字架の死においては、死による神との関係喪失が起こらなかった。行伝2:24以下。神はイエスの死において、ご自身をイエスと同一化され、死の破壊力、神との関係を喪失させる力に身をさらされ、その死の破壊、関係喪失をご自身で耐え忍ばれた。この死による関係の破壊の直中で、絆が断たれたところで、神は《新しい創造》をなされた。それは「アブラハムは死人を生かし、存在しないものを存在するものへと呼び出す方、神を信じた」(ロマ4:17)とあるように、無からの創造、死んだイエスを復活させらた、という神の行為である。十字架で死んだイエスとの関係を断たれることがないことを、神との関係が断たれたところで新しい関係を創造されて、それをイエスの復活として啓示された。
 これはキリスト者に重大な事柄ーーキリスト者の死観の変貌をもたらすはずだ、 一、ピリピ2:21以下。特に23節「私が切望するのは、(生に)別れを告げて、キリストと共にいることである」、二、第二コリ5:8「私たちは、キリストのもとに住むことができるように、体を脱ぐことのほうをとりたい」、
  「生存の終り」
 ではイエス・キリストの復活以後、キリスト者の生死観に「変化」が起こるのであろうか。たとえばヨハネ5:24「アーメン、アーメン、私はあなたがたに言う、私の言葉を聞き、私を派遣された方を信じる者は、永遠の生命を所有しており、また審判にあうことがない。むしろ死から生命へと移されている」。
 だとすれば、キリスト者はすでに永遠の生命を与えられているのであるから「死ぬことがない」のか。ヨハネ6:47~51参照。いやそうではあるまい。
 前回において「呪われた死からの解放」についてパウロの言葉を聞いた、ロマ7章。その死から解放された人間は「自分の死をどのように把握すればよいのか」。呪いの死から解放された人間はやはり「やがて死ぬ」。しかしその死は決して「呪われた死」ではない。神の和解に基づく「新しい被造物として死」である。神との関係喪失をもたらさない死、滅びに至らない死である。生命の終りとしての死である。しかし滅びとしての死ではない死である。神の業としての死、神がつくり出される死で、生存の終りある。「神がなしたもう終り」である、ユンゲル「死」。「人間がつくり出す死」は、自分に対たいしてつくり出す場合にしても、他の人々に対してつくり出す場合にしても、自殺、殺害であって悪であり、「呪われた死」に属すものだ。
 そもそも死をつくり出すのは「神のみ」である。それ以外の死は悪、犯罪である。人間は神のつくり出したもう死を受け入れ、耐え忍ばなければならい。なぜなら人間が被造物として「死という生存の有限性」をもつことは人間の被造物性そのものに属すからだ。旧約聖書においては祝福された人間の死を「日満ちて死ぬ」と表現して、アブラハム、イサク、ヨブの名をあげている、創世25:8「アブラハムは年が満ちて(長寿を全うしてして)息を引き取った」、ヨブ42:17「ヨブは年老い、日満ちて死んだ」。しかもこの生存の終りとしての死を受け入れることは、人間にとって正しいことであり、神との本来的な関係を示すものだ。むしろ「人間の不死性への願望」そのものは神との正しい関係を破壊した、神への反逆、反乱であった(ゴルヴィッツアー)。禁断の木の実を食べた行為、バベルの塔の建設など。しかし罪の結果の死、呪われた死の彼方にあるのが、関係喪失、虚無、滅びであるのと違って、この終りとしての死の彼方には「神が待っておられるはずである」。現代のキリスト者に決定的に欠落しているテーマは「この死の彼方、来世についての把握、来世観」である。