建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

キリスト者の復活5  第一コリント15:55~56

2000-33(2000/9/17)

キリスト者の復活5  第一コリント15:55~56

 「『死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげ(刺)はどこにあるのか』と。死の刺は罪である。しかし罪の力は律法である」
 旧約聖書からの引用の第二は、ホセア13:14。ヘブル語聖書では「死よ、おまえの呪いはどこにあるのか。陰府よ、おまえの減びはどこにあるのか」。七〇人訳では「死よおまえの罰はどこにあるのか。陰府よ、おまえの刺はどこにあるのか」。パウロの引用はこのいずれでもない。パウロはここで「死」を人格化している。「刺」は行伝26:14に「刺の棒」とあり、体罰、拷問のためのもので、死の支配と力の象徴である。
 55、56節のこの二つの旧約の引用によって、パウロが意図しているのは、「死への敗北宣言、死への嘲笑」である。この「死への嘲笑」は、人間の側からは実現できない。
 ルタ一の講解にはこうある「その時には死に障害がおかれる。死は永遠に飲込まれてしまった、 54節。今死はわれわれに逆らって歌う、私に歯向うがよい、おまえが逃れうるかどうか見ていようと。しかしその時になると逆である。死は勝利に飲込まれてしまった。すなわちキリストの復活に飲込まれてしまうのである。おまえはどこを刺せるというのか。陰府よ、おまえはこれ以上勝つことはできない。キリストにおいて事は始まったのである。キリストはご自分の体において彼・死を根こそぎになさった。これが、キリストを信じる者にお与えくだった勝利であり、こうしてわれわれはキリストが復活祭に獲得なさったと同じ勝利を終りの日のその時もつに至るのだ」。
 「『死の刺は罪である。しかし罪の力は律法である』(56節で)。パウロは『とげ・刺』によって何をいおうとしたのか。死は刺をもつかのように描かれる。パウロはそこに罪と陰府と律法しか見出さない、と言おうとしたのだが、これはあいまいな表現である。ギリシャ人やローマ人はこれを理解しない。罪は死の針、銃、よろい、武器であり、それによって死は強力であると言ったのだ。
  同じように死は手中にしている力、強さ、勝利を律法から得ている。これは来るべき生命を求め、来たるべき復活を待っている人々のためのものである。他の人々には関わりがない。…彼らは死や罪には決して気づくことがない。キリスト者たちは死がどのような刺をもち、罪がどのような力をもつかを感じる。パウロは、死の刺とは罪の剣である、罪がなければ死はその針をそのままにしておくしかない、と言おうとする。しかし死がわれわれを殺すというのは、罪がなすのである。罪がわれわれを死なしめるのである。したがって死に対して勝利を得ようとすれば、死に先立って罪に対して勝利を勝利を得なければならない。なぜなら罪こそ(人間に)勝利を得て人間を死へと追いやるからである」。
 ルタ一はここでロマ7:7~12の「罪と死の弁証法」を想起している。
 「むしろ律法をとおしてでなければ、私は罪を知るようにはならなかったにちがいない律法が『欲を起こすな』と言わなかったとしたら、私は欲を知ることはなかったであろう。しかし罪は戒めをとおして機会をとらえて、私のうちのあらゆる欲に働きかけた。つまり律法がなければ罪は死んでいる。私はかつて律法なしに生きていた。しかし戒めが来た時、罪が生きかえり、私は死んだ。そして私に証明されたのは、私に生命となるはずの戒めが、まさしく私に死のためのものとなったことであった。罪は戒めをとおして機会を得て、私を欺き、戒めをとおして私を殺したからだ」。
 ルターは続ける「罪は死の刺である、すなわち良心がまずもって恐れる時、心の中を死の刺、罪が通りぬける。この罪は心と体を互いに分かつ。罪はこのように有毒なものであって、一瞬のうちに人間を取り去る。まずもって罪がなかったとしたら、死はなにものでもないであろう。罪が来ると人間は死ななければならない。死はどこから来るのか、罪からである。罪こそが人を殺す。
 今やパウロは、罪について語る。罪は人を死に至らせるほどの力をどこから手に入れたのか。『罪の力は律法である』(56節)。(律法からである。)律法によって罪が認識されて、ロマ7:7、その罪がのちにわれわれを殺す・死に至らせる(第二コリ3:6~7「文字は殺す、しかし霊は生かす。文字で石に刻まれた(モーセの律法の)死の奉仕・職務が…」)。律法がその働きを始めると、罪は一瞬のうちに強力となる。律法は人に罪を認識させるばかりではない、人の中で罪を強めるのだ。律法が説かれる(読まれる)と罪が目覚めさせられ、罪は体と魂を分離して、あなたを殺すことになる。これが『刺』である。律法が罪をもたらすのではなく、灯を点じて心の中を照らす。するとあなたは罪でいっばいになる。その時あなたは多くの槍(刺)が自分に向けられていて、死ぬほかないと自覚する。あなたに不当なことが起こっているのではなく、律法は聖であり、死もあなたに権利をもっていて、正当なこととしてあなたを喰い尽くす。それでは私はどうなるのか。そこでキリストはわれわれの罪をその首に担って言いたもう『律法よ、人間がしたことは何でも、罪よ、人間が獲得したものは何でも、私はこれを空にした』と。…キリストは咎のない方であるのに、しかも罪を犯された、すなわち人間が犯し、そのために死ななければならない罪を、私がやった、と言ってくださる。そこで罪がやってきて彼を殺す。すると彼は墓からでてきていいたもう『罪よ、律法よ、死よ、なぜおまえはおまえの主人を殺し、罪人にしてしまったのか、立ち止まれ。おまえはもはや私を恐れさせ、殺し、裁き、埋葬することはない。逆に律法よ、おまえを神の子を断罪し殺し葬ったとして告発しよう。おまえの首はすつ飛ぶのだ』。…
 それだから律法があなたを告発しようとすれば、こう言えばよい『私は一人の人の名によって洗礼を受けている、この方はキリストと呼ばれ、死に勝利なさった。私はこの方を信頼し、この方の勝利におすがりする。この方の勝利は私の勝利である』と。…」。ルタ一の講解は、とにかく律法、罪、死の連関とキリストの復活によるそれへの勝利をきわめて執拗に展開した点は前代未聞の業績であると感じる。他方、キリスト者の復活とそのありよう、霊の体についての展開が少し弱いように感じられる。 続