建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

キリストと共に1  ピリピ1:20~24

2000-35(2000/10/1)

キリストと共に1  ピリピ1:20~24

 「私の渇望している希望は、自分が決して恥を受けることではなく、むしろいつもそうなったようにまさしく今もまた、[私の]生をとおしてであれ死をとおしてであれ、私の体でもってキリストが公然と栄光を受けるようになることである。といのは私には生はキリストであり、死は利益だからだ。しかし肉における生の場合には、これは私には業の収穫である。どちらを選ぶべきか私にはわからない。しかし私は二重に[双方に]結びっけられている。私が切望しているのは、世を去ってキリストと共にいることである。そのほうがはるかに善いからだ。しかし肉にとどまることは、あなたがたゆえに必要不可欠である」ローマイヤー訳、佐竹明訳参照。

 これから取り上げるピリピ書に関しては、殘念ながら「講解」はないようだ。そこでこの書に「教義学的にアプローチ」したものを手がかりにした。最初にカール・バルトの注解。
 20節の後半。バルトはここを次のように翻訳した「キリストが私の身体生活をとおして《偉大となりたもう》であろう。それが生きることにおいてにせよ、死ぬることにおいてにせよ」(川名勇訳)。
 バルトは通常「栄光を受けられる」(受身形)と訳される用語をシュラッター[20世紀前半、新約各書の注解書を書いた]に従って「偉大となりたもうた」と翻訳した。原語「メガルノー」から見れば、この翻訳は十分可能である。バウアーによると受身形では「あがめられる、栄光を受ける」の意味で、行伝19:17「キリストの名があがめられた」に用例があるという。
 「私の身体生活をとおして」は直訳では「私の体でもって」。「私という人物、私自身をとおして」という意味、バウア一。「体」という用語は、ここでは強い響きをもっている。この書簡が獄中書簡であって(「私の入獄」「囚人である私」1:14、17、「私の血が注がれたとしても」2:17)パウロは、自分の入獄と殉教の可能性などを想定して、使徒としての苦難を「自分の体で」担っていると自覚していた。
 「彼の身体的(魂ー体的)地上的実存は、《キリスト》が、事情いかんにかかわらず、《彼御自身》の権能と栄光を拡張するために仕えさせる一手段にすぎない」(バルト)。パウロの存在、人格、賜物、活動は自分のため、自分の名声や財産のためではなく、「キリストが公然と、広い公衆の面前で、偉大なものとされる、あがめられる」、そのための「器・手段」である(第二コリ4:7)。
 「いつもそうなつたように今もまた」。パウロの捕囚は従来、他の使徒キリスト者の蹟きとはなることなく、むしろ彼らを激励していた。1:13~14「私の入獄が近衛隊兵営にも、他のすべての人たちにも実にキリストにおいて啓示されるということが起きた。そしてたいていの兄弟たちは、ー私の入獄から主にあって信頼をつくり出しながらー実に恐れることなく、神の言葉を語る、ますます大いなる勇気を奮い起こした」。
 キリスト宣教のゆえにローマ帝国当局によってパウロは獄の中に入れられ、「今や裁判の公判が彼の眼前に迫っている。彼が無罪放免を宣告されて新しい活動に呼びもどされるにせよ、あるいは有罪判決をうけて死の権能の掌中に陥るにせよ」(バルト)、これが20節の「生によってであれ死によってであれ」の文脈である、とバルトは解する。「両者をとおして、両者において、キリストは偉大となることができる」。
 「私の身体生活をとおしてキリストが偉大となりたもうであろう」について。
 ローマイヤーの注解によれば、ここでの「私の体」は単数形。つまり信仰者らや教会共同体の運命についてではなく、むしろ個人、パウロ自身の運命について語られている。パウロが待望しているのは審判ではなく、「卑賤の体の変容」(3:21)である。この変容もまた「地上的な衣服を脱ぎ去って、天上的な衣服を着ること」(第二コリント5章)も、これをなさるのはパウロにとってキリストである。ここでの眼日となるのは、終末論的な時における教団の完成ではなく、むしろ死における殉教の完成である。行伝7:56においてステパノは「天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見える、と言った」。このような表象からこの箇所の意味が明らかになると、ローマイヤーはみる。1:23ではパウロは「私が切望しているのは、世を去ってキリストと共にあることである」と言ったが、これはパウロの、《殉教の死への切望》を表明したものとローマイヤーは解釈する。この解釈は少しづれているようだ。
 20節後半「それが生きることにせよ死ぬることにおいてにせよ」について、バルトはキリスト者の「復活」と関連づけられると見た、「生と死がこんなに等価に並列され、しかしそれらを超えてそれらを包括しながら、第三の事象だけが重大事件に思えるところでは、ほかならぬ《復活》が宣教され、あらゆる人間的存在と非存在の終極目標にある、主の栄光が宣教されているのだ」。