建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ホセアにおける希望  ホセア11:18

2000-43(2000/11/26)

ホセアにおける希望  ホセア11:18

 預言者ホセアは、前753から724年ころ、北王国イスラエルで活動した。彼の活動した最後の10年間は、政治的な危機の時期で、アッシリアの王ティグレトピレセル(在位前745から727)の侵略的な目が北王国を脅かしていた。北王国の王ぺ力は隣国シリアと反アッシリア同盟を結んで、南王国ユダをも同盟に誘ったが南王国の王アハズがこれを拒否したので、シリア・エフライム(イスラエル)連合軍が南王国に侵入した(前734、列王下16章、イザヤ8章)。アハズ王はアッシリアに救援を求めたので、アッシリア軍が侵攻してきて、シリアを征服し、かつ北王国の大部分の地域を占領した(前733、列王下15章)。ホセアはこのような状況のもとで、こう神の言葉をこう預言した。
 「私(神)はエフライム(北王国)には獅子のようになり、
  ユダの家(南王国)に対しては若き獅子のようになる。
  私、この私こそ かき裂いて去り かすめていく者であるが、
  誰も救う者はいない」(ホセア5:14)。
 ここでは希望が《政治的な領域》で語られている。すなわちイスラエルの王、民が神に依り頼むのではなく、政治的な同盟や軍事力、外交的手段(アッシリアへの朝貢、救援の依頼、5:13)など、地上的な勢力に自分たちの希望の根拠をおこうとする時、外国勢力ではなく、むしろ神ご自身が彼らの最大の敵(獅子)となって、王国を蹂躙し彼らの希望をついえさらせる、と語られている。
 ホセアにとって、そもそも北王国の王朝自体が神のみ心に反したものであった、「彼らは王を立てたっ しかし私によって立てたのではない」(8:4)。ホセアは王国それ自体が神に背くものと批判したのではなく、むしろ北王国の当時の王6人のうち5人が王を暗殺して王となった人物であって、22年間に5回の流血クーデターが起きた事実を批判したのだ(列王下15章)。「ホセアは、これらの政治的な事件の中に、北王国に対する神の審判がすでに進行しつつあるとみなしていた」(ラート)。

バアール宗教との闘い
 ホセアにとってカナンのバアール宗教との闘いは、決して自分の外側にあるものとの闘争ではなく、自分の妻との結婚生活と関連した、彼の内側の、妻との背く妻をなおも愛している自己との聞争であった。彼がめとった妻はゴメルといい、「姦淫の妻」といわれている(1:2)。これは倫理的な意味で「不倫の妻」という意味ではない。むしろ宗教的な意味での「姦淫の妻」すなわち、バアール宗教の祭儀に関与した、その祭儀に参加したその祭儀に従事していた、その崇拝者という意味である(彼女を神殿に訪れる者らの娼婦、神殿聖娼とみる解釈がある)。その祭儀への関与はおそらく性的な姦淫の内容をも含んでいたと思われる。結婚して子を産んだこの妻が家出した時、彼はもう一度この妻を受け入れよ、と神に命じられた。
 「あなたは再び行って、恋人を愛し、姦淫を行なった妻を愛せよ。
  たとえイスラエルの子らが他の神々に向かい、
  干しぶどうの菓子を愛したとしても
  主が彼らを愛するのと同じようにである」(3:1)
 マルチン・ブーバーは、ホセアにおける愛の特徴の一つを「怒りを含む愛」という(「預言者の研究」)。またH・W・ヴォルフはこの愛を「怒りや憎しみ」(9:15)と正反対のものであって、相手を助けその背きを癒す愛の形であるという(14:4「私(神)は彼らの背きを癒す」)(「ホセア書注解」)。この愛は一方では「たとえ彼らが他の神に向おうとも、私は彼らを愛する」(3:1)と語られているが、しかしながら、他方この背く者への愛は、民の背信をいいんだ、いいんだといいかげに見過ごすものでは決してない。他の神、バアールに向うことは激しい表現で「姦淫」と呼ばれている(1:2、3:1、4:10)。この姦淫をとおして神とイスラエルとの真実な関係は破綻した、と語られている(1:6~9)。そればかりでなくイスラエルの民は、怒りを超えた神の愛に出会っても、神に立ち帰ることを拒んだからだ。「彼らは私に立ち帰ることを拒んだ」(11:5)、「わが民は私に背くことを固持している」(同七節)。そして神のこの拒絶ゆえに、北王国に政治的な危機が訪れた。
 「イスラエルの家よ、あなたがたの大いなる悪のゆえに、
  私はあなたがたにこのようにしよう(戦乱による減亡)」(10:15)。
 ホセアにおいては、異民族による侵入は、例外なく神の怒りの道具として出現する(ヴォルフの 「注解」)。先に言及したアッシリアによる北王国への侵入は、ホセアの目にはそう映った。「私の怒りは彼らに向って燃える」(8:5)「私の燃え上がる怒り」(11:9)。
 他方、ホセアは神ご自身の中で怒りと愛との闘いがどのように解決されたかを告知している。11:8前半
 「エフライムよ、私はどうしてあなたを捨てることができようか。
  イスラエルよ、どうしてあなたを放棄することができようか。
  どうしてあなたをアデマのように捨てることができようか。
  どうしてあなたをゼボイムのように扱うことができようか」
 ここの「アデマ、ゼボイム」はかつて神の怒りに触れて減亡した町の名(申命29:23)。したがってこの二つの名は、神の中ではその怒りのゆえに滅亡させた記憶のあるものであった。「かしこでは神の怒りがこの町を瓦解させた。しかしここでは全く逆のことが起こる。ここでは町と人々の瓦解、転覆ではなく、神ご自身の側の瓦解、転覆が告げられる。今や神ご自身が倒され、転覆なされるのだ」(ヴォルフの注解)。神の転覆については具体的にこう述べられている。11:8後半
 「わが心は私に逆らって変わり、
  わが《憐れみ》は激しく燃えあがっている」。
 ここの「わが憐れみ・ラハミーム」の翻訳は、ほどんとの訳が「憐れみ」。七〇人訳は「メタメレイア・悔恨」とヴォルフが「悔恨」(ニハムの派生語)の訳。「わが心は私に逆らって変わる」は、神の怒りの心から憐れみ、愛への変化を表現している。ブーバーは「神のみ心が変わる瞬間である」と解釈し、ヴォルフは「旧約聖書において最も心をうつ箇所である」という(「旧約聖書の人間理解」)。