建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

哀歌の希望2  哀歌3:29

2001-5(2001/2/4)

哀歌の希望2  哀歌3:29

 次に29節「彼の口をちりにつけさせよ。《おそらく》なお希望がある」を取り上げたい。ここにある「おそらく」は、どのような意味なのだろうか。一般的には「希望の現実性」ではなく「その可能性」を意味すると解釈されがちである。「おそらく、なお希望がある」は、「なお希望がある」をかなり「弱める表現」のように一見みえる。
 しかしながら歌い手は、この「おそらく」を預言者らの伝統から受け継いだようだ。希望と結びついた「おそらく」について、アモス(前八世紀北王国イスラエルで活動した預言者)はこう語った、5:15「惡を憎み、善を愛し、門で公義を立てよ。そうすれば、万軍の神、ヤハウエは《おそらく》ヨセフの残りの者を憐れむであろう」。アモスは、ここで人々が神の律法、特に貧しい者についての戒めを実践するならば、神の憐れみを与えられる希望もあると語っている。預言者エレミヤ(歌い手と同時代、南王国ユダで活動)もこう述べている「ユダの家は、私(神)のくだそうとしているすべての災いを聞いて《おそらく》おのおの悪い道から立ち帰るであろう。そうすれば、私は彼らの咎と罪を赦そう」(36:3)。
 確かに一般的には「おそらく」は、あいまいさ、不確かさを意味している。したがって希望をもつ主体の側にポイントをおくと、「それゆえ私はヤハウエに希望をいだく」(哀歌3:24)のほうが、「おそらくなお希望がある」(3:29)よりも、希望への「確信の度合い強い」と感じられる。しかし眼目は、希望の対象と希望をいだく主体との関連性である。言い換えれば、希望はどのようにして実現するかである。希望の実現が、もっぱら希望をもつ主体がどれほど希望の実現を確信しているか、に依存しているのであれば29九節の「おそらく」は希望のもちかたの「弱さ」を表現したものとして、24節のヤハウェへの希望のもちかたより後退したものとなろう。ところが、この考えは希望をもつ主体の希望のもちかたにのみポイントをおいて、他方の、希望の対象(何に希望をいだくか)は全く眼中にない。これはハイデッカーの立場と同じものである「希望の構造にとって決定的なのは、希望が関係している当のものの《到来的な性格》ではなく、むしろ希望すること自体の《実存論的な》意味にある」(「存在と時間」)。
 ところが希望の実現は、希望をもつ主体の確信の度合いには依存するのではなく、むしろそういってよければ、希望の対象の《到来的な性格》に依存している。これは「どのように希望をもつか」のテーマとも密接に関連している。希望はどこからくるか、である。旧約聖書新約聖書も「希望は神から与えられる」とみている。哀歌3:29では希望の実現は、ヤハウエの自由な裁量、決定に依存している。希望をいだく者がその希望いだく確信の強さによって希望の実現を招き寄せるのではない。むしろその希望が実現するかどうかは、希望の対象、神が決定される。だから希望をいだく主体ができるのは、神が自分の希望を実現してくだるであろうと、言うことだけである。希望をいだく主体は、希望が実現することに、自分を委ねること、希望の実現を緊張して待つのでなく、希望の実現を《ゆったりとして待つ》、神の裁可に自分を預けた、任せた姿勢をとる。このような謙虚な姿勢での神信頼の言葉が29節の「おそらくなお希望がある」である。すなわち希望をもつという行為は、希望の対象、神に決定的に規定されているとの見解、希望の実現は神の自由な決定に委ねられているという見解、これが哀歌三章の立場である。