建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ヨブの希望2 13:14~16

2001-7(2001/2/18)

ヨブの希望2 13:14~16

 ヨブは希望が神からのみ来るという友人たちの見解に全く同意している。しかし、問題は哀歌三章においける希望について言及したように、どのようにして希望をいだくかことが可能になるかである。希望をいだくことは当人の主体性に依拠するのか。友人たちが、知恵文学における「秩序」という考え(神は「秩序」をもって世界をこの世を保持される。義人には恵みを、悪人には審判を与えられる)にたって、《人間が自分の行為によって、それによりかかって神による希望を分配に与るれると主張する場合には、ヨブは激しく反論せずにはおれない》。友人たちの希望についての見解、神は敬虔な者に希望を与えられる、という考えが、ヨブには妥当しないからだ。ヨブは自分も敬虔であると思っているが、神はこの敬虔な者の手から希望を奪いとられる、またヨブは自分の敬虔が自分に希望を取りもどさせることはできない、と確信している。友人たちの希望についての見解と、ョブの現在の希望についての体験と確信とはまっこうから対立しいている。人間の神への敬虔は、神からの希望を得る根拠となるのかならないのか。
 ヨブのここでの弁論は友人たちのものよりも全く冒瀆、不信仰のように映る。したがってヨブ記の終りで、一方でヨブは創造者の全能に驚いておしにされ、手で口をおおったのであるが、他方神ご自身の口から、ヨブは友人たちより「正しいこと」を語ったとの言葉(42:7)が述べられるのは驚くほかない。これは、ヨブが友人たちの弁論よりも、生ける神について遥かに深いことを知つていたことを意味する。ヨプは人間の行為によって神から希望は得られるような「秩序」といった大系、そのようなものにいささかも拘束されない神の主権と自由について論争したのだ。
 ヨブの場合、しかしながら神の自由な主権に対して最大限に栄誉を帰すという事態は、一方では現在自分に与えられた賜物を享受するという方向(伝道の書)に向うことをしないし、他方、詩篇におけるような方向「私は耐え忍んで神を待ち望んだ」(40:1、37:7)における忍耐への徹底した批判的な態度となっている。
 「私の終りがどのようなものなので、私はなお耐えなければならないのか」(6:11)。ヨブは、現在の生の享受や忍耐しつつ待つこととは別の、それ以上の希望の形、未来を情熱的に熱望する。
 この熱望の背後にあるのは、創造者なる神が被造物なる人間といまなお関わりを持とうとなれているとの、ヨブの認識である。これは出エジプト記や第二イザヤにおける、神が歴史の中に介入して、救済の出来事を起こされるという、救済史の認識ではなく、詩篇や哀歌における、神の慈しみの不滅性への認識でもない。むしろヨブは個人にとっての恵みの体験や民族の救いの出来事などの歴史を突き抜けて、歴史の始原にまでさかのぼり《創造者がご自分のみ業である被造物、一人の人間と絶えず、今なお関わりを続けようとされている原事実に依拠しよとしている》。そして神が真に人間に関わろうとしているのであれば、ヨブにとってもあるいは深い苦悩の闇夜の中にある人にとっても、希望はまだ残されているにちがいない。
 ヨブの以下の五つの希望についての弁論は、この視点によって理解可能になる。
 第一にヨブの絶望的な発言から。
 「私はわが肉をわが歯でかませ、わが生命をわが手の中に置く。
  見よ、神は私を殺す。
  私はそれを《待たない》。
  ただ私はわが道を彼の前にで立証したい。
  神を知らない者は神の前にでることはできないからだ」(13:14~16)。
 この箇所で「わが生命をわが手の中に置く」は、生命を賭けた冒険をするとの意味である。次に「私は待たない」15節後半は、《別の読み方》があって少し厄介である。
 文語訳は「彼、われを殺すとも われは彼に依り頼まん」。古くはウルガタ(五世紀ラテン語訳)が「神が私を殺されてもなお、私は神に希望を置こう」。ツンメリや関根正雄訳も同じで「私は彼を待つ」。他方チューリッヒ訳聖書は「私はそれを辛抱しない」。ブッデの註解は「私は何の望みをもたない」。ヘルシャ一訳は「私は何の望みもない」。ルタ一、ワイザーも同じ。シュトイエルナーゲル訳「私には全く希望がない」(ヴェスタマン「旧約聖書における希望」)。ヴェスタマン自身の訳「見よ、神は私を殺す。私はそれを待たない」。
 ヨブは未来に対する絶望的な突進の中で、自分を死に脅かされる状況に置き、神に挑戦する。もしヨブに死がやってくるなら(15節)ヨブの待望、希望には救いの微光があるのだろうか。
 第二の弁論では、驚くべきことに、舞台は人間の地上の世界から「陰府」(よみ、死後の世界)に移される。
 「どうかあなたが私を陰府に隠し
  あなたの怒りがおさまるまで 私をかくまい
  私のために時を定めて 私を覚えてください。
  人は死んでも 再び生きるのだろうか。
  私は服役のすべての日を待つ。 わが解放の来るまで。
  あなたが呼ばわれば私はあなたに答よう。
  あなたはみ手の業を熱望される」(14:13~15)。
 ヨブは苦悩の中で陰府、死者の世界の中に座している。地上では自分に対する神の怒りの追求がやまないので(17:9)、陰府を自分の隠れ家とした。神のみ手は陰府にまでは及ばないと考えたからだ(詩88:12 「あなたの義は忘れの国で知られるでしょうか」)。ヨブが求めているのは、自分の苦況からの解放ではない。むしろ神に完全に捨てられる場、陰府で、神の怒りがしずまるまで、神が自分を守ってくれるようにとの不可能な事柄を願っている。そしてやがて神の怒りがしずまった後、神が「み手の業」被造物なるヨブを待ちあぐみ、自分を神のもとに呼びもどすにちがいない、との大胆な考えを語っている。これがヨブにとっての新しい未来と希望であった。