建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ヨブの希望4  19:25~27

2001-9(2001/3/4)

ヨブの希望4  19:25~27

第五の主張。
 「しかし私は知る、私を《贖う者・ゴーエール》は生きておられる
  最後に彼は塵の上に立たれるであろう。
  私の皮がこのようにしてはがされ
  私の体をむき出しで私は神を見るであろう。
  私が自分で認知できる存在として
  けして見知らぬ存在としてではなく
  私の目は彼を見るであろう」(19:25~27)
 ここでは、希望という用語は出てきてないが、この箇所はすでに言及した16:18以下の「血の叫び、わが証人」とも、また17:13以下の、陰府へのヨブの希望とも関連している。ここでヨブはすでに自分が死んだ者であるかのように語っている。ヨブがここで間題としているのは、ヨブの苦難の意味などではなく、すでに失われたとみえる彼の義認そのものである(フォン・ラート)。言い換えれば、眼目は神の前でのヨブの義、ヨブの生きる権利、失われたと思われるヨブの権利回復である。そしてその権利は神をとおしてしか確かなものとはならないし、神をとおしてしか実現しないのだ。
 ヨブは今、イスラエルの法的な伝統における不正によって殺された死者になり代わって、殺人者の死をもって復讐することをとおして、死者の死を贖い、死者の権利回復をする「血の復警者・ゴーエール」という見解に依拠して発言する。このヨブのゴーエール、血の復讐者、ここでの「贖う者」は、神以外のどこにも存在しない。ヨブは自分の死んだ後に、失われた自分の権利、義しさのために立ち上がりたもうゴーエールのいますのを確信するに至ったのだ。
 「神はあらゆる生命の所有者である。何らかの暴力行為によって生命を脅かされる場合、それは神の直接の利害にかかわることである。そのことをヨブは知つており、厳粛に神に向って、神に対して訴えるのである」(フォン・ラート)。
 19:26でヨブは「私は《肉を離れて、体をむきだしで》神をみるであろう」と語るが、これは復活や永遠の生命を考えている、と誤解してはならない。むしろここでもヨブは17:13以下と同様に、陰府での出来事として「肉を離れて、体をむきだしで」を考えている。贖い主の贖ないが起こるのは陰府においてである。ヨブの贖い主は陰府の「塵の上に立つであろう」。したがって「ヨブは問題を死後の解決に委ねたことになる」(関根、注解)。しかもヨブがそう決心したのは今ここでである。ヨブが絶望の直中にあって、自分の失われた希望について文句を言いながらも、神ご自身にはなおも隠された可能性が残されていると告白したのは、今においてだからである(ツインメリ)。神は人間の創造者として失われたその人間の権利回復を実現される、法的なゴーエールすなわち「最も近い親族」(ルツ2:20、ゴーエールにはこの意味がある)、ヨブの「味方」(19:27)として出現される。すなわち始めの弁護者が事態を処理できない状況で法廷に登場する法的な代理者である。 ヨブにおいては現在、友人たちが主張するような「守護を与えるという伝承の神と、彼の体験した破壊の神との鋭い分離、両者の併存がある。…そして保証する者(16:19)、贖い主(19:25)である神が、敵なる神に対して勝利を得る」(フォン・ラート)。これがこの箇所でのヨブの希望の形である。この希望の形は友人たちの主張する人間が自分の行為として実行できる希望(自分で持つことができる希望)でも、自分の敬虔や忍耐などの功績に対する見返りとして要求できる希望でもなく、さらに神による秩序の保持という見解によって理解される希望の形でもない。
 むしろ神が神でありたもう存在として被造物への約束を破ることができないゆえに、神にのみ残されている希望として理解されるものである。
 「ここに旧約聖書の希望の決定的な特質が見出だされる。旧約聖書によれば、希望は神がその活動、賜物、約束によって唯一の主とされ、他方人間が《神の自由な賜物として》のみ《未来に与る》、それを唯一の場としている。したがって人間の希望が中立的な世界観やある世界観によって支えられる(たとえそれがどれほど敬虔なものであろうと)、究極的には単に人間の態度に依拠するにすぎない場合には、その希望は不安定な土台の上に築かれたものであり、やがて危機に直面すれば、砂の上に建てられた家のように、打ち砕かれてしまうであろう」(ツインメリ)。

 ヨブは最後にこう神に挑戦した、
 「全能者よ、私に答よ。わが論敵の書いた訴状、私はそれをわが肩に背負い、
  君候たる者のように、彼に近づこう」(31:35~37、関根訳)。
 ヨブの神に近づくとの行動は、ヨブをして聖書的プロメテウスたらしめる。なぜなら神への接近は、祭儀の領域での大祭司による至聖所への接近を別にすれば、モーセやメシアにのみ許されていた冒瀆だったからだ。「いったい誰が生命を賭して、私に近づこうとしたか、とヤハウエは言われる」(エレミヤ30:21)。ここでのヨブは「自分の生命を賭して神に近づこうとした」空前絶後の存在である。ヨブのこの言葉に打たれない者がいったいいるであろうか。
 神がその弁論でとり上げられたのは(38~41章)、出エジプトやバビロン捕囚からの解放といったイスラエルの救済史的出来事ではなかった。むしろ神の創造された世界、地の基い、海、風、天空の星座、プレアデス、オリオン、獅子、鷲、など70もの被造物が上げられた。なかんずく「かば・べヘモト」と「わに・レビヤタン」は注目すべきである。「かば」と「わに」は動物園に行って実際に見物しなかければならない。この二つは天地創造の後に神に敵対してついに神に屈伏した巨大な怪物的存在である。ヨブ記はこの二つに40:15~41:23まで2章にわたってしるいしているが、本物を見ればその「不気味さ」が看取できる。「見よ、私があなたと一緒に創った『かば』を」(41:15)。この言葉で神は、自らをメシアのように敢えて神に近づくヨブの反逆の牙を折り、怪物べヘモト・かばですらないヨブを批判しつつ、かばのみならず、ヨブを創ったのは(「み手の業」10:3、14:15)ご自分であると自己啓示されたのだ。そしてこれこそヨブが待ち望んだこであった。ヨブの答。
 「今や、私の目があなたを見ました。
  それゆえ私は自分を否定し
  灰の中で悔改めます」(42:6)
 「私の目があなた・神を見た」は、ヨブにそれまで隠されていた神を実感的に体験したという意味である。