建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ヨブの希望5  19:25~27

2001-10(2001/3/11)

ヨブの希望5  19:25~27

 神は友人たちよりも、ヨブのほうが正しいことを語った、と言われた(42:7)。
 「それからヤハウエはヨブがその友人たちのために執り成しの祈りをした時、ヨブの運命を転換された。…ヤハウエは彼の上にもたらさたすべての不幸について彼を慰めた。ヤハウエはヨブの終りをその始め以上に祝福された」(42:10~12)。多くの財産、子供たちが与えられた。

 私は、これまで絶望した時、いつもヨブ記を読み、その解釈を読みつつ、絶望からはいあがってきた。そしてヨブ記に言及した人々はいずれも絶望の体験者であって、ヨブを手がかりにして絶望からはい上がってきた人々だ、と思った。
 キルケゴールは「反復」(1843)という本でヨブを取り上げた。
 「…一夜になると、ぼくは部屋に灯火をつけて家じゅうをあかあかと輝かします。それから立ちあがってヨブの章句をここかしこと声高に、ほとんど叫ぶようにして読みます。…ぼくはこの書を幾度もくり返して読みましたが、その言葉の一つ一つが、ぼくにとっていつでも新しいのです。ぼくはその言葉に出会うごとに、一語一語はじめから生まれてき、ぼくの魂の中ではじめから生成するのです。ぼくは激情のあらゆる陶酔を、あたかも大酒家のようにちびりちびりと味わいながらすすりこみ、ついにそのためにほとんど意識を失うまでに酔いつぶれるのです。でなければ、ぼくはいいがたい焦燥にかられて彼の言葉に向かって駈けっけます。半句を飲みこんだだけで、ぼくの魂は彼の思想の中へ、彼の吐露した真情の中へ駈けこみます。投下された測鉛が海底を求めるよりもすみやかに、雷光が避雷針を求めるよりもすみやかに、ぼくの魂は彼の思想の中へ滑りこみ、そこにとどまります」。
 「ヨブにおける秘密、その生命力、その気魄、そのイデーは、いかなることがあろうとも、ヨブは正しい、ということです。この主張によって彼はあらゆる人間的な見方に対して、ひとつの例外たらんことを要求しているのです。彼の不屈さと力とはこの権能と権威を証明しています。どのような人間的な説明も、彼にとっては誤解でしかありません。…あらゆる対人論法が彼に向かって用いられますが、彼は毅然として自己の確信を持してゆるぎません。彼は主と和解していることを主張します。よしんば全人世が彼に対してその反対を証明しようとも、主もまた知りたもう彼の心の奥底では、自分が負い目なく清浄であることを彼は知つています。自由の情熱が彼にあっては、まやかしの言辞によって窒息させられたり、なだめすかされたりしないところに、ヨブの偉大さがあります。…
 友人たちはヨブをひどく悩ませます。彼らは論点を変えて、ヨブの不幸は懲罰と説きます。彼が悔い改め、赦しを乞うならば、すべてがまた元のようりになるというのです。けれどもヨブはびくとも動じません。…
 ところでひとはヨブの主張をいかに説明しているでしょうか。ヨブの苦患はひとつの試練である、これがその説明です。しかしこの説明は新しい困難をのこしています。ぼくはそれを次のように解いてみようと試みました。学問はもちろん人世と人世における人間の神に対する関係とを取りあつかい、それを説明します。では試練として規定されるような、無限性の見地から考えるとまったく存在しないで、ただ個人にとってのみ存在するにすぎぬ関係、それを容れる余地のあるような性質の学問があるでしょうか。そのような学問は存在しません。次に個人はどのようにしてそれが試練であるという事を知るようになるのでしょうか。およそ思惟における実存と意識の存在について何らかの観念をもっているほどの個人ならば、口でいわれるほど急には片づかない、まずこの出来事はもちろん宇宙的な関係からとり出して、洗い清められなくてばなりません。そして宗教的な洗礼を授け、宗教的な名前を与えられねばなりません。そのうえで人は倫理の臨検に臨ぞまなくてはなりません。こうして『試練』という言葉が出てくるのです」。
 「ヨブの偉大さは『ヤハウエが与え、ヤハウエが取られた。ヤハウエのみ名はほむべきかな』(1:21)と彼がいったところにあるのではありません。なるほど彼は初めにこの言葉を口にすることをしましたが、あとでは反復しませんでした。ヨブの意味はむしろ《信仰への境界争いが彼のうちで戦いぬかれた》ということ、荒れ狂う好戦的な激情の力の恐るべき叛乱が彼のうちで演じられたということにあるのです」(桝田啓三郎訳)。
 ドストエフスキーは「ヨブ記」についてゾシマ長老にこう語らせている、
 「ここには神秘がある。かりそめの地上の姿と永遠の真理がここで一つに相交わっているという点にこそ、偉大なものがひそんでいる。地上の真理の前で永遠の真理が演じられているのである。ここでは創造者が、その天地創造の最初の幾日かの間『わが創りたるものものは善し』という讃美をもってその毎日の仕事を完成させたように、またヨブが神を讃えたのは、単に神だけに奉仕するものではなく、世々代々未来永劫、神のあらゆる創造物に奉仕することであったのである。なぜならばそれが彼の使命であったからだ。ああ、これはなんという書物であろう。なんという教訓であろう!この聖書というものはなんというありがたい書物であろうか。なんという奇跡、なんという力がこれによって人間に与えられたことか!…神は再起させ彼にふたたび財産を与えたではないか。さらに幾多の年月が流れて、彼はいまや新しい、別の子供たちの親になった。そして彼はその子供たちを愛している。『どんなに新しい子供が可愛くても、前の子供たちのことを思えば、新しい子供たちと一緒に前のようになに不足のない幸福を味わうことができるものだろうか』と思えるのももっともである。しかしそれができるのだから不思議である。《古い心の痛手は人生の偉大な神秘によって、次第次第に静かな、感激に満ちた喜びに変わってゆく》」(「カラマーゾフの兄弟」、第六篇「ロシアの修道僧」1878、小沼文彦訳、強調引用者)。