建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

カヤパとピラトの審問1 マルコ14:60~64 

2001-14-2(2001/3/25)

エスへの大祭司カヤパと総督ピラトの審問1  マルコ14:60~64

 さてユダヤ教当局、最同法院でイエスが告発された中心ポイントは、大祭司カヤバの審問にあるように「あなたは讃美される方の子、メシアなのか」(マルコ14:61、マタイ26:63)、すなわちメシア詐称の嫌疑であった(周知のようにメシアのギリシャ語訳がキリスト。メシアはあぶらを注がれた者・受膏者で大祭司、預言者、宗教的存在ばかりでなく、政治的存在、ダビデら王もあぶらを注がれた)。メシアでない者がメシアだと偽って活動したことが瀆神罪に当たると告発されたのだ。この嫌疑の根拠となるイエスの言動には、イエスの全権要求の箇所がある。
 第一に「私は言う、誰でも人々の前で私を[主と]告自する者を、《人の子》も神のみ使いたちの前で[弟子として]承認するであろう」(ルカ12:8、ボッホ訳)。よく知られているように、ここでの「人の子」は後期ユダヤ教エチオピアエノク書、ダニエル書7章などに登場している「メシア称号」である。イエスは生前このメシア「人の子」をご自分と同一視されて、ご自分を神の代理人とみておられた(パンネンベルク「キリスト論細要」イエスの神性認識)。
 イエスの全権要求の第二の箇所は、ヨハネ10:24~26、30以下、
 「ユダヤ人らがイエスを取り囲んで言った『あなたがメシアであるのなら、そうだとはっきり言ってください』。イエスは答えられた『私はそうだと言ったのに、あなたがたは信じない。私が父の名で行なった業が私のことを証明している。しかしあなたがたは信じない。…《私と父とは一つである》』。…ユダヤ人らはまたもやイエスを石打ちの刑にしようと石を持ってきた。イエスは彼らに反論された『私が父による多くの善き業をして見せたが、そのうちのどの業のために私を石打ちの刑にしようとするのか』。ユダヤ人らは答えた『善い業のゆえに石打ちの刑にしようとするのではない。むしろ神冒瀆のためである。あなたは人間でありながら、自分を神としているからだ』。イエスは答えられた『…私が父の業をなしているなら、私を信じなくても、その業は信じよ。そうすれば、父が私の中、に、私が父の中におることがあなたがたにわかるであろう」(シュナッケンブルク訳)。
 第三に、イエスが罪を赦す力を主張されたこと。「イエスは中風の者に言われた、子よ、あなたの罪は赦された」(マルコ2:5)。
 第四に、イエスの取税人や罪人、遊女らとの交流(マタイ11:19、ルカ7:36以下)、サマリア人との交流(ヨハネ4章)、ライ病人や長血の女性の癒しなどは、ユダヤ教当局の根本的な衝突の原因となった。ユダヤ教当局が社会的宗教的な交わりから遮断した「彼ら」を受け入れる行動は、ユダヤ教の本体にゆさぶりをかけるからだ。

 「あなたはメシアなのか」との大祭司の審問に対して、イエスは答えられた「私はそれである」(マルコ14:62)。これは絶対的な肯定の答である。他方「あなたがそうだと言っている」(マタイ26:64、塚本訳「そうだと言われるならご意見にませる」)の場合には、イエスは「回答を回避された」のではなく「決定的ではない肯定」である、プリンツラー「イエスの裁判」などの解釈。ほとんどの解釈は「イエスがメシアであると公言した」とみる、コンツェルマン、モルトマンなど。
 では自分をメシアと公言する者は、みな神をけがす瀆神罪に問われるのであろうか。これについては、自分をメシアと称えるだけでは、サンヘドリン・最高法院は死刑判決を出せないという見解がある、コンツェルマン、(「共観福音書の受難報告における史実と神学」)。その根拠として引き合いに出されるのがバル・コクバ(後130年ころ)で、彼はラビ・アキバにメシア王とたたえられ、ユダヤ教当局から瀆神罪で告発されていない。では「なぜ」メシアと半ば公言されたイエスに大祭司カヤパは死刑判決を出せたのか(マルコ14:63、マタイ26:65)。 続く