建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

カヤパとピラトの審問2  マルコ14:60~64

2001-15(2001/4/1)

大祭司カヤパの審問  マルコ14:60~64

 イエスの全権要求は、
 第三に、イエスが罪を赦す力を主張されたこと。「イエスは中風の者に言われた、子よ、あなたの罪は赦された」(マルコ2:5)。
 第四に、イエスの取税人や罪人、遊女らとの交流(マタイ11:19、ルカ7:36以下)、サマリア人との交流(ヨハネ4章)、ライ病人や長血の女性の癒しなどは、ユダヤ教当局の根本的な衝突の原因となった。ユダヤ教当局が社会的宗教的な交わりから遮断した「彼ら」を受け入れる行動は、ユダヤ教の本体にゆさぶりをかけるからだ。
 「あなたはメシアなのか」との大祭司の審問に対して、イエスは答えられた「私はそれである」(マルコ14:62)。これは絶対的な肯定の答である。他方「あなたがそうだと言っている」(マタイ26:64、塚本訳「そうだと言われるならご意見にませる」)の場合には、イエスは「回答を回避された」のではなく「決定的ではない肯定」である、プリンツラー「イエスの裁判」などの解釈。ほとんどの解釈は「イエスがメシアであると公言した」とみる、コンツェルマン、モルトマンなど。
 では自分をメシアと公言する者は、みな神をけがす瀆神罪に問われるのであろうか。これについては、自分をメシアと称えるだけでは、サンヘドリン・最高法院は死刑判決を出せないという見解がある、コンツェルマン(「共観福音書の受難報告における史実と神学」)。その根拠として引き合いに出されるのがバル・コクバ(後130年ころ)で、彼はラビ・アキバによってメシア王とたたえられ、ユダヤ教当局から瀆神罪で告発されていない。では「なぜ」メシアと半ば公言されたイエスに大祭司カヤパは死刑判決を出せたのか(マルコ14:63、マタイ26:65)。
 結論は簡単である。大祭司は始めから公正な裁判をしたのではなく、イエスを瀆神罪で有罪にしようとの「予断をもって」審問にのぞみ、本来法的には有罪には相当しない、イエスのメシア告白のみで、瀆神罪に仕立て上げた、ということである。大祭司・最高法院にとっての「伝統的なユダヤ教のメシア像」と、イエスの現実の姿は決定的にかけ離れていたからだ(プリンツラーなど)。「彼にはわれわれの見るべき姿も美しさもなく、われらの慕うべき容姿もなかった」(イザヤ53:2)。聖戦を戦うダビデのような勇士のおもかげもなく、抵抗せずに無力な姿で捕縛され、危急に際しては弟子の1人に裏切られ、弟子たちに見捨てられて、敵の暴力に引き渡されるイエスのあわれな姿と行動には「メシア的な輝き」が欠落しているようにみえた(プリンツラー)。最高法院は「イエスは神を冒瀆している。イエスは無力なのに、自らを神と同じ位置においたからだ」(モルトマン)とみたのだ。

ローマ帝国への叛乱指導者のポイント。
 ユダヤ最高法院はイエスに死刑の判決を出した(マルコ14:64)。ところが最高法院はイエスを総督ピラトに渡した。ユダヤの法では瀆神罪には石打ちの死刑が定められていた(ヨハネ18:32)。重大な宗教犯に対する裁判権と判決権とは最高法院が持っていた、しかしながら最高法院は死刑の執行権をもっていなかった「私たちには人を死刑に処する権限がない」(ヨハネ18:31)。死刑の執行権はローマの総督ピラトがもっていた。しかし総督は死刑の執行のみでは動かないし、宗教犯という告発も取り上げなかった。総督の管轄する裁判は、いわゆる「政治犯、反ローマ的な暴動の謀議、叛乱罪」に限定されていた。総督の審問の中心ポイントは「あなたはユダヤ人の王なのか」である(ヨハネ18:33、37、マルコ15:2、マタイ27:11)。「ユダヤ人の王」という表現は「イスラエルの王」のローマ的な言い回し。「メシア告白」ではいまだ「宗教犯」として総督はその告発を取り上げないが、自分を「ユダヤ人の王」と称した者があるとすれば、総督はその告発を取り上げざるをえない。ユダヤ教当局は、この微妙なニュアンスの違いを把握していた。このポイントをルカ23:1~2が伝えている「最高法院は、イエスをピラトの前に引いていって『この人は民衆を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、また《自分がキリスト(メシア)すなわち王である》と言っているのを確かめました』と告発し始めた」。しかし総督ピラトは直接イエスを審問して、そこに政治的に危険なものを見い出せなかった。むしろイエスの「王たる告白」に《特異な宗教性》を感じ取った。「私の国(バシレイア)はこの世のものではない」(ヨハネ18:36)というイエスの言葉にある「バシレイア」は「王国・王的支配」を意味している。このバシレイアが「この世のものではない」とはイエスのみ国は、霊的、宗教的な性格をもつもので(時間的に「現在の世」に対する「来るべき世」の意味ではなく、空間的に地下の世界でも、地上でもない、天上の世界に属すとの意味合い、パレット「ヨハネ伝注解」)。この世的な手段、武器をもって叛乱を起こし、権力に抵抗して戦うという事柄と無縁であるとの意味である。ピラトの審問「あなたはユダヤ人の王なのか」に対するイエスの回答は、ここでも「私が王だと言っているのは、あなただ」とある(ヨハネ18:37、マルコ15:2、マタイ27:11)。これも審問に対する「間接的な肯定」である(ブルトマン「注解」)。しかしながらピラトはこの回答によってもイエスを「反ローマ的な政治扇動者ではない」と判定した、「私はこの人に何の罪も見い出せない」(ヨハネ18:38、19:2、4、ルカ23:4)。むしろ「無害な宗教的夢想家」と判断したようだ(プリンツラー)。そこでピラトはイエスを釈放しようとした(ヨハネ19:12)。
 にもかかわらずピラトはユダヤ教当局者らの脅しに屈した。「もしあなたがこの人を赦すならば、あなたはカイザルの友ではない。自分を王とする者は誰でもカイザルに反抗する者だ」(19:13)。もしイエスを釈放したら、ピラトをカイザルに直告すると当局者らはピラトを脅したのだ(へロデ大王の長男ユダヤの領主アケラオも彼らの直告で追放処分となったこと。総督としてエルサレムに入場した時ローマ軍に軍旗をおろさせず、皇帝の像の徽章を携行してユダヤ人の抵抗にあったことを、ピラトも自覚していたろう)。それゆえこの脅しは有効であった。ピラトは自分の地位の安全のほうをとった。
 ピラトによるイエスへの「死刑判決の宣告」は明記さていないが、死刑にするためにイエスを部下らに「引き渡した」(19:16)行動が、死刑判決の言い換えと解釈されている。十字架刑は、叛乱奴隷らや国家に反逆した者、その扇動者に課せられた極刑であった。「イエスのメシア要求(告白)は、政治的にみればきわめて危険なものであった。イエスの罪状書き(「ユダヤ人の王」マタイ27:37、並行)は政治的犯罪を明記している。イエスのメシア要求は、ローマの支配に直接抵触するような犯罪であった。すなわちそのメシア要求は、ローマの法廷によって断罪されなければならない謀反を意味していた。ユリウス法典によれば、王たろうとする要求は叛乱の原因となるかぎり、死にお値すると宣告された」(モルトマン「イエス・キリストの道」)。