建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

パウロへの顕現2  第一コリント15:8~11

2001-27(2001/6/24)

パウロへの顕現2  第一コリント15:8~11

 パウロはこの顕現に出会って「目が開かなくなった」(行伝9:8)。神殿の祭司、洗礼者ヨハネの父ザカリアは神殿において幻を見て「口がきけなくなった。ザカリアが神殿から出てくると口がきけなかったので、彼が聖所で《幻・オプタシアを見た》ことが民衆にわかった」(ルカ1:22)。
 第一コリント15:8~11「しかしとうとう最後にキリストはまったく一個の早産児にすぎぬ私にも現われた。というのは私は使徒たちのうちで一番小さい者であって、使徒と呼ばれる値打のない者であるからだ。なぜなら私は神の教会を迫害したからである」。
 この箇所についてルターはこう解釈している
 「神はそのために[復活した方との出会いはその人自身によってどのように表現されるべきか]このような自信たっぶりの、思い上った魂を用いようとは欲しない。そうではなくて以前にはいかにももみくちゃにされ、誘惑され意気沮喪させられていたような人々を用いようと欲する。彼らは聖パウロがかつてそうであったように悪童であったこと、および神とイエス・キリストの敵として、神に対する正真正銘の大罪と呼ばれてよい、そうした罪の重荷を背負わされていたことを、知りかつ告白しなければならぬ。それは彼らがいつまでも謙遜にとどまり、思い上がった振舞いに出たり、自ら誇ったりすることができないためである」(ルター、講解)。
 さらにパウロは自分が教会の迫害者から180度転換してキリストの宣教者となったことについてこう述べた「かつて私たち[キリスト者]の迫害者が、かつて粉砕したその信仰を今では宣教していると、彼ら(ユダヤの諸教会)は聞いて、私のゆえに神を讚美した」(ガラ1:23)。波多野精一の「キリスト教の起源」にあるように、パウロの劇的回心を、彼がステパノの演説を聞いて衝撃を受けて、激しい葛藤をつくり出してそれがダマスコ途上で劇的回心をとげて復活信仰に到達したといった、心理学的に説明する必要はない。真実の神体験というものは、その体験者に人々の注意をひきつけて、その体験内容に驚嘆させる、という形をとらない。むしろここにあるように、その人にその体験を可能にしてくださった神へと人々の注意を向けさせて、彼らの中に神讚美を起こすものだ。
 パウロにおいては「教会への迫害者」、ペテロにおいては「主イエスを否認した経験」復活顕現に出会った使徒たちは、自分のそういった罪を告白することなしにはこの出会いについて語ることができなかったのだ。第二に、パウロはここで主との自分の出会い「誇ることなく」むしろ「神の恵みについて語っている」。「私が現にあるところのものであるのは、神の恵みによってである」「彼らのすべてよりも私はもっと多く働いた。これは私でなく私と共にある神の恵みである」。