建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

死人の復活3  第一テサロニケ4:16~17

2001-33(2001/8/12)

キリスト者の復活4  第一テサロニケ4:16~17

 主の来臨における「出来事」については、「二つ」語られている。一つは「死人たちの復活」の出来事であり(16節後半)、もう一つは「生ける者たちが、《復活させられた死人たちと共に》主と出会うために《移される》出来事である(17節前半)。その時には死人も生ける者も救いを得るであろう。すなわち生き残る者たちが死人たちに優位にたつものでは決してなく、また教会全体はすでに救いを実現したのではなく、なおも将来的な救いを自己の前にもっているにすぎない。救いが将来的である点においては、死者にとっての救いへの希望と同様である。さらに死人はかの時の救いからもれることも除外されることもないのであるから、生ける者らも亡き教会員、死人らに対する希望を決しておろそかにしないように、パウロは述べている。
 16節の「神のラッパのもとに」は、終末時における神の行動にともなうもので、この出来事の突如的な開始とその普遍性の意味も示している。メシアや神ご自身が、時の終わりに天からおりてくるとの黙示文学的表象は、「その時、人の子が雲にのって来るのを、人々はみるであろう」マルコ13:26、14:62にも出てくる。この出来事の意味は主が地上において何か行動なさるために到来されるのではなく、むしろ17節、空中で主と出会うために信仰者らが《移される》点にある。つまり主が近づきがたい天のみ座から登場されて、ご自身との直接の交わりを可能とされる、これが主の来臨の出来事である。
 むろんこの来臨によって「キリストにある死人ら」が復活する、16節。その場合、パウロは亡くなったキリスト者と生きているキリスト者との運命を区別している。そして亡くなったキリスト者らもキリストに属している。しかしこの「キリストにある」でパウロはキリストに属していない「死者一般の復活」という考えを締め出している。
 来臨における第一の出来事は、死人の復活である、「まず」16節後半。
 さて《それに続いて》生き残った者たちの運命については「移される」、17節。死者たちは復活させられるが、彼らが「移される」とはいわれていない、「移される」のは「私たち、生きている者、生き残った者たち」のみである。
 「雲で」。雲は神顕現についての付属物で、ダニエル7:13では人の子の到来も雲と結合されている。マルコ13:26。ユダヤ教の信仰では救われる人々は「雲で栄光のみ座へとあげられる」という。終末時の、信仰者の「移行」は、神の行動領域に属す出来事であって、救いに与る人々は雲で導かれて、天的な世界に受け入れられる(ホルツ)。この「移行」の目的は「主との出会い」である。ここの「出会い・アパンテーシス」という用語は、政治的な意味合いが強く、住人が国家の高位の人々におごそかに「会見・謁見する」という二ユアンス(マタイ8:34)。主が天からおりてきて、移された人々が主に会う、むろん彼らは主と会う地点や彼のまわりに留まるのではなく、天からおりてくる途上で、彼を出迎えるのである。
 「空中で」は決して重要な意味合いをもっていない。空中は主と主に属す者たちが出会った後の、継続的な滞在の場所とは決して考えられていないからだ。  続