建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

復活に対する心理学的解釈の問題

2001-36(2001/9/2)

復活に対する心理学的解釈の問題

 死人の復活は、第一に、「死人の蘇生」とは別物である。新約聖書にもラザロの復活(ヨハネ11章)ヤイロの娘(マルコ5章)などの蘇生の奇跡が述べられている。しかし蘇生された人々はやがて死ぬのだ。これに対して、復活させられた者は、もはや死ぬことがなく、不朽の生命の中にある。
 第二に、死人の復活は「自然法則に反するから認められないという立場」も存在する。しかし自然法則は、決してオールマイティーではない。現代の人間にとっては、自然法則は一部分しかわかっていないし、ある出来事がその法則に適合するか否かも、事柄の一側面でしかない。自然法則を根拠にしている自然科学の力も大きな限界をもっている。私たちは、癌や糖尿病のような自然科学が征服できてない分野、自然科学が無能にみえる分野を多く知つている。また罪なき大量の人間が無残に殺害される悲惨な事件も、ヒロシマやアウシュヴィッなど、二〇世紀の戦争の中で数多く私たちはみた。 その人々の生命、財産、打ち込んで仕事、いだいていた夢や希望、それらをどう償い、回復すればいいのか、この問いに対して、自然科学は無能である(実は死人の復活の背景には「この間い」が厳然と存在する)。歴史における出来事一般が実際起こりうるかどうかという判断は、むろん自然法則や自然科学に基づいてある程度は判断できる。しかしある特定の歴史的な出来事が実際あったかなかったについて、自然法則や自然科学はその出来事がその法則、その科学的な知識に適合するかどうかの判断は出せても、最終的に実際起きたか起きなかったかの断定はできない。ある特定の歴史的な出来事が起きたかどうかを判断するのは、自然科学者がその知識に基づいて判断すべき課題ではなく、歴史家の課題、任務なのだ。すぐれた科学者は、ある特定の歴史的出来事があったかどうかについて、決して自然法則に反しているからそれは起きなかったのだと断定はしないで、むしろ判断停止をおこなうのだ。このポイントは復活の出来事への問いにも適応される。
 第三に、復活についての心理学的解釈
 19世紀、フランスのルナンは著書「イエス伝」(1863)において、イエスの復活はマグダラのマリア(以前その重い精神疾患をイエスに癒していただいだ女弟子で、復活のイエスに最初に出会った者の一人)の《精神疾患がつくり出した空想の産物だ》(主観的幻想説と呼べるもの)と主張して、世間のごうごうたる非難を浴びた。この本は岩波文庫に入っているので、日本においてキリスト教についてよく知らない人や、キリスト教に批判的立場の人々が「とびつきやすい解釈」だ。しかしながらこのルナンの解釈は、使徒パウロの復活証言とは適合しないし、キリスト教会の成立、その世界伝道への展開など何ひとつ説明できない。それゆえルナンの解釈を今日真剣に取り上げるキリスト者はいない。
 他方では、イエスの復活は《弟子たちの熱狂的興奮の想像力によって形成されたものだとの解釈・主張》は、ルナン以後も後を絶つことなく繰り返し試みられた。この立場の問題点はさまざにあるが、その一つは「イエスの復活顕現をもっぱら弟子たちの復活信仰からだけ説明しよう」として、復活顕現を成立させたのは復活信仰であると考えている点である。すなわち復活信仰を成立させたのはほかでもなく復活顕現である点をたやすく見落としている点である。最近の心理学的解釈一例として、ドイツの新約学者リューデマンの、ペテロへの復活顕現についての解釈をスケッチしたい。
 「ペテロがイエスを否認したにもかかわらず、イエスの死にもかかわらず、復活祭のイエスの赦しの言葉[ルカ5:10後半「恐れることはない。今から後あなたは人問をとる漁師になる」を原著者はそう解釈した]が悲嘆に沈むべテロに届き、彼はイエスを<見た>のである。彼はイエスの言葉を今なお生きている方の言葉として、イエスの全体との出会いとして、経験した。ペテロの状況は悲嘆の状況といえる。これは、愛する者を失って悲しむ者が、なお死者が現存しているというイメージをもつという報告との比較から明らかである。……さらに幻覚と幻聴に加え、死者が現存しているという感覚をもつことがきわめて多い。『死者はいつも私と一緒にいます。彼はもう思い出でしかないとわかっていますが、私は彼を見、彼がしゃべるのを聞くのです』(ヨリック・シュピーゲル「悲嘆者の過程」から原著者の引用)」(リューデマン「イエスの復活」1996、橋本慈男訳)ここを読むと復活の心理学的解釈といっても、この程度のものかとがっかりさせられてしまう。先に指摘したように、この解釈は、復活顕現を成立させたのは、ペテロの心の感情、悲嘆の状況であって、復活信仰が復活顕現を成立せしめたという転倒の誤りを犯している。しかも、この解釈は、聖書の本文「キリストはケバ(ペテロ)に現われた」(第一コリント15:4)や「まことに、主は復活して、シモン・べテロにご自分を現わされた」(ルカ24:34)と結びついた解釈とはとてもいえない。さらに、心理的な解釈が見落としているのは、パウロの見解においても、顕現がマグダラのマリアやべテロに限らず多数の者に起きたこと(第一コリ15:3以下)、顕現の期間も決してべテロへの顕現の段階からパウロへのそれの段階に至る期間は、ほぼ三年間にわたっている点である(顕現の期間を四〇日としているのはルカのみである、行伝1:3)。すなわち顕現記事について心理学的解釈など試みないで、パウロらによってしるされた顕現記事を史実としてそのまま受け入れるほうがはるかに実りの多い結果をもたらすはずである。