建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

復活の体1  ルカ24:36~43

2001-37(2000/9/9)

復活への疑いを克服するモチーフ  ルカ24:36~43

 この記事(ルカ24:36以下)の動機づけは、イエスの復活に対する弟子たち自身の「疑いを克服すること」にあると考えられる。
 福音書の復活顕現記事を注意深く読んでいくと、弟子たちがイエスの復活を信じられなかったと多くの箇所で述べられている、のに気づく(ブルトマンの「ヨハネ伝注解」がこの点を指摘しているのに出会って、私はわが意を得たりと感じた)。
 第四に、ルカ24章では、他の福音書よりも復活への疑いが集中的に述べられている。マグダラのマリアらが「空虚な墓」について男性弟子たちに報告したが、彼らは「その話が冗談のように思えたので、女性弟子たちを信じなかった」(24:12)。エマオの弟子たちの発言、イエスの十字架の死から「今日はすでに三日目になりました」(21節)は、イエスの復活などありえようもないという彼らの諦念と絶望を意味している。空虚な墓に対する彼らの無理解は「預言者たちの言葉を少しも信じない、悟りの悪い、心の鈍い者たちだ」と復活のイエスに叱責されている(25五節)。
 さらに、弟子たちのイエスの復活に対する疑いは、突然の復活のイエスの顕現に「弟子たちはぞっとしておののいた。幽霊を見ていると思ったのだ」(37節)とある。この弟子たちの「疑い」はただちにイエスによってとがめられている「なぜ心に疑いを起こすのか」(38節)。そして復活のイエスがその疑いの克服としてなされたのが次の二つの仕方である。
 第一は、復活した方の手と足の提示と接触の指示である。「私の手と足を見なさい。ほかでもない、 私だ。私に触ってみなさい。幽霊には肉と骨はないが、私にはそれがあるのがわかるから」(39節。40節の手足への接触ヨハネ20:20とまったく同じなので、そこからの挿入と解釈されている)。復活した方の「(傷跡のある)身体の部分の提示と身体的接触の指示」、これが「復活した方と生前のイエスとが同一の方であることを示す証明方法」である。この証明方法は、敵側(グノーシス主義)との対決を反映しているであろう。同時に同一化のモチーフをここに読み取ることもできる。 しかし「幽霊には肉も骨もないが、私にはそれがある」(39節)にも弟子たちは納得しない、弟子たちの疑いは頑強である「彼らがまだ信じられないで怪しんでいると」(41節)。
 第二の証明方法は復活した方が「ものを食べる」という方法である。「イエスはその魚を受け取って、彼らの前で食べられた」(43節)。弟子たちの前での食事によって、復活した方は「蘇生した方」として顕現したのではないかという印象が強い。では「肉も骨もある体」は「復活の体」ではなく「蘇生した体」を示しているのだろうか。
 復活した方の身体に関していえば、ルカの記事は「体(Leib)の復活」ではなく「肉体(Fleish)の復活」を主張している、とグラースは解釈している。確かに記事のこの部分だけ読むと次のヒルシュの立場も正しいかのような印象を受ける。
 「福音書の復活顕現における《復活した方の身体性》は、墓から天的な栄光へとあげられていく途上にある、蘇生させられた体での顕現」のように映る(ヒルシュ「復活物語とキリスト教信仰」1940)。またヒルシュはこのルカの記事が復活した方の力強い《身体具有性》を表現したものと解釈した。
 第四に、あげたいのは《パウロ的な復活理解のグレイド・ダウン》。パウロは復活の身体性として述べているのは「地上的体・ソーマ・プシュキコン」と対立する「霊的な体・ソーマ・プニュマティコン」「朽ちゆくもの、死ぬべきもの」に対して「朽ちないもの、不死なるもの」であった(第一コリ15:44、52以下)。あるいは「地上的ないやしい体」に対立する「栄光の体」(ピリピ3章)、あるいは「地上的な体」が「変えられる・変容された体」(第一コリ15章)である。したがってパウロの立場は、ルカが描いた「肉と骨を具有する復活者」とは決定的に対立している。ルカが復活したお方をこのように述べたのは、キリスト者らがパウロ的な、地上的な体とは異質の「霊的体への復活」をもはや信じられなくなったからである。復活したお方の手足を見たり、その体に触れたりしなければ、復活を信じられない(ここまでは第三の立場)。言い換えると、キリスト者は非地上的な、霊的体をもった復活させられたお方という存在、パウロ的な復活論を保持しきれないで、肉も骨も具有した復活者という庶民的な、わかりやすい、復活表象へと頽落したのだ。霊の体では信じられないで、むしろ復活を信じるために霊の体のリインカーナチオン(Reinkarnation。再受肉、グラースの用語)を要請したのだ。かくてパウロの地上的な体とは異質で断絶したところの《復活したお方の霊の体》という表象を放棄してしまったのだ。パウロはコリント教会のあるグループ、死人の復活を拒否して、キリスト者の将来的復活を否認した小集団と対決したが(第一コリ15:12以下)、これとはまったく異質である、キリストの復活を受け入れないキリスト者の集団、傾向とルカは対決しているようだ。「肉体に復活させられたキリスト」という見解は、次の教父の文書にも登場している。