建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

マグダラのマリアへの復活顕現2  ヨハネ20:17

2001-40(2001/9/30

マグダラのマリアへの復活顕現2  ヨハネ20:17

 ヨハネの場合に初めて、復活は父のもとへと上っていき栄光を受けることで完成するとみなされた。しかしヨハネはこの上っていくこと・昇天をこれ以上は述べていない。マリアは上っていく途上の主に出会い、この上っていくことを他の者に証言するよう委託を受けた証人である(参照。行伝1:8~9)。ヨハネ伝はこれと違って、弟子たちへの復活顕現は《昇天後の降下》として表現されている。マリアへの復活顕現での眼目は「途上での顕現」にある。泣いている女性をとおして、イエスは墓から栄光への道をさえぎられ、自分の道をこれ以上妨害しないよう に彼女に訴えた。
 ヨハネ20:17の強調点は、イエスがまずもって父のもとにいかねばならいという点にではなく、むしろ「イエスが父のもとへ行って救いの手段を実現するという点にある」。マリアへの委託「私の兄弟たちのもとに行って彼らに言いなさい、私は私の父あなたがたの父のもとに行く」(20:17後半)は、弟子たちと同時に読者にも宣教している。14:2ではイエスは彼らに場所を用意するためにいく、と約束された。14:3ではイエスは彼らのもとに再びもどってきて、彼らを自分のもとに呼び集めると約束された、「行って場所の用意ができたら、もどってきて、あなたがたを私のところに連れていく、私のおるところにあなたがたもおるためである」。この箇所の、イエスがもどってくることを終末論的、聖霊論的に理解するならば、復活祭の歴史・出来事のポイントは、イエスが父のもとに上ったことをとおして準備を仕上げた方、特別の全権をもって準備をし終えた方として弟子たちのもとにもどってくるという点である。16:7「私が上って行かなければ、パラクレイトス・弁護者は来ないが、私が父のもとに行けば、私がパラクレートス・弁護者を遣わす」で約束した、御霊を《主は上った後に身体具有的に現われる方として》自ら与えられる。20:22「イエスは彼らに息を吹きかけて言われた、聖霊を受けよ」。そう理解すれば、マリアへの委託は弟子たちに聖霊授与の準備をせよとの伝言としてそれを待望させる約束(16:7)として理解できよう。以下の弟子たちとトマスへの顕現は、天的な栄光へと挙げられた主を共観福音書の場合と同じように、再び地上的な境遇にまいもどり、弟子たちに教え、自分の体にふれるように要請した方として述べているからだ。これらの出現は、いずれも何か驚くべき《再受肉・リインカーナチオン》である、グラース。
 ブルトマンは、父のもとに上った後に、弟子たちのもとにもどって来て彼らのそばに住む、との約束(14:3、18、23)と復活察の出来事(20:19以下、そこではこの世的な交流の形で復活した方が弟子たちと交流について語られているが)との間には緊張があると見ている、注解。ヨハネ自身は原始キリスト教の復活理解への批判をした、とブルトマンはみるのだ、
 「一七節後半の、イエスが《まだ》父のもとに上げられていない、の意味をねじまげて、イエスが父のもとに上げられた《のちには》、イエスは弟子たちに《肉体的接触》を要請される、トマスに手と脇腹にさわるように指示されたことが(27節)その根拠となるとの見解が出されるが、これはこじつけの解釈でとても正しいとは言い難い。しかも『私は《もどって来て》あなたがたを私のもとに連れていく』(14:3)『私は父のもとに行くが、すぐ《もどって来る》』(同18、23)における『来る、もどって来る』は、親密な身体的接触が起こるような、地上的な存在様式での帰還では《ない》。マリアが見た方は、彼女の『師よ』との呼びかけからもわかるように、弟子たちに『もどって来ること』、ご自分との交わりを約束された、挙げられた方ではない。復活させられた方と弟子たちとの交流は、弟子たちと父のものとにもどされた方との交流として将来においてのみ実現されよう。したがってその交流は地上的な形のものではない。《私にふれるな》はマタイ28:9、ルカ24:38~43で基礎づけられた表象(復活した方は身体的接触を要求されている)に照準を向けているばかりでなく、ヨハネ自身によって語られた復活祭の出来事にも光を投じている。復活させられた方のリアルで地上的な出現の奇跡は(30節)《しるし》一般と同様に、相対的な価値しかもっていないし、またその本来の意味も象徴的なものである。復活祭の出来事はそもそも曖昧さと矛盾をかかえている。実際身体的な手でもって接触することが禁じらるとしたら、どのようにして身体的な目によって見ることが起こりうるるのか」(注解)。
 「我にさわるな」が言わんとしたのは、イエスが父のもとに上る前にマリアがイエスに出会った時には、イエスはいまだふれられないということではなく、むしろ主は《復活した方として一般にふれることができない》とブルトマンは主張する。このポイントは十分聞くべき解釈である。しかし他方以下の解釈に対しては異論がある。復活した方のリアルな、この世的な出現の奇跡は、ヨハネにとってしるし一般と同様《相対的な象徴的な価値しかもっていない》。マリアの物語の本来の意図は、17節後半のイエスの言葉「真実の復活祭信仰は父のもとにイエスが上ることを信じること」「十字架のつまづきを持ちこたえること」にある。しかしこの信仰は復活した方の把握可能な、この世内的な表示・出現への信仰ではない。ヨハネにとって象徴的な意味をもっているのは、復活祭の出来事ばかりでない。《イエスの復活自体ももはや決して重要な意味をもっていない。というのは十字架上のイエスの死自体がヨハネにとってイエスの高挙と栄化であるからだ》。復活物語も復活の出来事も基本的には無用のものであり、また人間の弱さによって承認されている。言い換えるとブルトマンの解釈によれば、ヨハネ伝の復活記事は「すべてが成就した」十字架の出来事(19:30)の「付加物」でしかないことになる。

(続く「マグダラのマリアへの復活顕現3」は失われたため未完)