建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

キリスト者の復活1  第一コリント15:50~57

2001-42(2001/10/14)

キリスト者の復活1  第一コリント15:50~57

 「兄弟たちよ、 このことを私は言いたい、肉と血は神の国を受け継ぐことはできない、滅びゆくものは不滅のものを受け継ぐことはできないと。見よ、私はあなたがたに奥義を告げる。すなわち私たちすべてが眠りにつくのではなく、私たちすべてが変容されるであろう。最後のラッパの折りに、たちまち、瞬時に。実際ラッパは鳴るであろう。すると死者らは不滅のものとしてよみがえらさるであろう、また私たちは変容させられるであろう。というのはこの滅びゆくものは必ずや不滅のものを、この死ぬべきものは不死なるものを着せられるであろうからだ。しかしこの滅びゆくものが《必ずや》不滅のものを、この死ぬべきものが不死なるものを着せられ《ねばならない》時、その時(聖書に)書かれた言葉が成就される《であろう》、『死は勝利に飲みつくされた。死よ、おまえの勝利はどこにあるのか、死よ、おまえのとげ(刺)はどこにあるのか』[イザヤ25:8、ホセア13:14]。しかし死のとげは罪である。しかし罪の力は律法である。しかし神に感謝せよ、私たちの主イエス・キリストをとおして私たちに勝利を与えてくださっているお方に」(シュラーゲ訳)。
 ここではパウロは15章全体のテーマ「現実としての復活をあるがままのものとして証している」(バルト「講解」)。
 50節。「血と肉」とは被造物としての生れながらの、死ぬべき人間の本性を形成しているが、 そのような存在は、生者にしても、死者にしても、み国には入ることはできない(シュラーゲ)。51節の「奥義・秘密・ミュステリオン」は、「終末時の秘密」のことで、人間の理性では把握しきれない預言的な啓示を意味する(シュラーゲ)。具体的にはこの奥義とは来臨における《すべての者の変容》を意味する、52節。「私たちすべてが眠りにつくのではない」は、私たちすべてが来臨以前に死ぬのではなく、来臨の時点で生き残っている人々がいる、という意味。
 「変容される」(受身形)は、「私たちすべての者」死者たちのみならず、生きている者たちすべてに関わる。パウロが言おうとしているのは、この変容が「キリストの来臨の時点で生きている者のみ」に関わる出来事だ、というのでは《なく》、むしろ死者にも関わるということである。パウロにとって死はあらゆる者にとって終末論的救いに与かる不可欠条件ではないのだ。エノクの例を引き合いに出して変容、移行について述べた藤井武はこの点を正しく把握していた。死者が生者よりも有利な存在として、それ自体では「神の国を受け継ぐことはないこと」(50節)、不死性を獲得するとはないこと、を正確に把握明したのは、バルトである。生者はむろん死者よりも有利な存在ではない点は(たとえそれがキリスト者であってもそれ自体では)パウロが50節(および第一テサ4:15)で明らかにした。この「変容の出来事」は、通常の死者と生者との隔絶、障壁を引き裂いて、死者と生者の双方に《同時的に》一つの出来事を引き起こす。「生者と死者との二つの集団が基本的に同一の運命をたどるとパウロはみなしたのだ」(コンツェルマン、注解)。「パウロの場合、生き残った者たちの変容は、死人たちのよみがえりと共に《ただちに》起こる」(シュラーゲ、注解)。「復活は人間の生と死とを縦に貫いて起こる」(バルト)。これが「変容の出来事」である。
 52節ではこれはいつ起きるのかを取り上げている。「突然介入してきて、すべての時代を《縦に引き裂くこの危機》」(バルト)。これについては、三つ語られている。すなわち「瞬時に、またたく間に、最後のラッパの折りに」と。このラッパは「神のラッパ」であって、黙示録8章のみ使いらのそれのように、世にカタストロフ・崩壊をもたらすものではなく、天からの主の来臨を告げるラッパである。「瞬時に」も「またたく間に」もこの出来事が「突発的な事件であること」を述べている(バルト)。新しい創造の奇跡的性格を表現している。つまり、これは通常の歴史の流れのカテゴリーでは把握できないものであって、ここでは「通常の時間表象・概念は拒絶される」 (コンツェルマン)。「歴史の漸進的な、あるいは破局的な諸発展において来るような出来事ではなく」むしろ、この出来事・変容は他のもろもろの歴史を貫いて独自の道を進みゆく救済史である(バルト)。「最後のラッパの折りに」(第一テサ4:14では「神のラッパ」)。これこそこの危機の決定的な標識である。52節中段にはもう一度「ラッパは鳴るであろう」との「未来形」がでてくる。この未来形に着目してバルトはいう、ここでの眼目は「復活の未来」「永遠の未来」であるから、この聖句の引用は必ず未来形でせよと。
 さてその時、何が起きるのか。それが「変容の出来事」である。この「変容」をパウロは同じ用語で二つの意味で用いている。第一に、包括的な意味。それが51節「すべての者が、死者も生者も変容されるであろう」。52節では、この変容は、同時的な二つの出来事に「区別」される。死者らの場合の変容は、復活「復活させられるであろう」と表現され、他方「私たちは変容されるであろう」すなわち生き残る者らの場合の変容は、変容と表現されている。
 死者の復活は「死人は不滅のものによみがえらされるであろう」とある(52節)。これは後期ユダヤ教の復活理解とは決定的に異なっている。第一に、そこでは、死者たちは義人にしても罪人にしても、死んだ時と同じ姿でもどってくる(シリア語バルク黙示録50:2以下、旧約偽典に属すこの文書は新約聖書時代のもの)。第二に、定めされた時間がたった後に初めて、復活させられた両者、義人と罪人の双方に《変化が起こる》。義人のみが「彼らの顔形が変化して輝き、死することなき世界を受け取るであろう」(前掲書51:1以下)。
 52節における「変容」は、これと異なって、死者のよみがえりをもって《ただちに》 起こる。自分や他の人々が死んだ時のままの姿でまいもどってくる(シリア語バルク)のではなく、ここでのポイントは、神が創造者的にこの変容を実現なされ、死者たちをよみがえらされることにある。すなわち死者のよみがえりは《同時に彼らの変容である》。52節後半における「そして・カイ」すなわち「《そして》死者たちはよみがえらされ《そして》私たち[生き残っている者たち]は変容させられるであろう」における「そして・カイ」において、死者たちがこの変容に関与していることは明らかだ。死者たちはよみがえりに至るまではなおも「滅びゆくもの、死ぬべきもの」であるが(53~54節)、その時初めて「不死なるもの」としてよみがえらされる(52節)。したがって彼らは以前の「魂的な体」と新たな「よみがえりの体・霊の体」(44節)とを交換するのではない。死者のよみがえりはその変容と《同時的に起こるもの》であって、生き残った者たちもこの変容に組みこまれている(シュラーゲ)。