建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

キリスト者の復活2  第一コリント15:53~

2001-43(2001/10/21)

キリスト者の復活2  第一コリント15:53~

 53節「というのはこの滅びゆくものは不滅のものを着せられ、またこの死ぬべきものが不死なるものを着せられ《なければならない》からである」。
 ここは復活の意味、変容の意味を説明している。その意味とは「不滅性、不死性を着せられることだ」と説明されている。ここの「滅びゆくもの・フタルトン」は、「滅びゆくもの、腐朽すべきもの、過ぎ行くもの、朽ちるもの」などの意味(ロマ1:23「不滅の神と滅びゆく人間」、第一コリ9:25、第一ペテロ1:23参照)。翻訳ではルタ一訳「移ろいゆくもの」、「腐朽するもの」バウアー、バルト、コンツェルマンなど。協会訳前田訳「朽ちるもの」。次に「不滅のもの・アフタルシア」は、後期ユダヤ教の偽典、第四マカベア9:22では敬虔な若者の殉教との関連で「不滅の生命へと変えられる」、17:12「つきることのない不滅の生命」として出てくる。「不死なるもの・アタナシア」は旧約外典の知恵の書3:4「不死性への大いなる希望」、15:3「あなた(神)の力をわきまえることこそ、不死のもと」に出てくる(このほか第一コリ15:42、50、また52では「復活の体」の意味で)。
 ここで復活の出来事は 「不滅のもの、不死なるものものを着せられる」と表現されているが、この「新しい身体性を着せられる出来事」がどのようにして起きるかについては次のように述べられている。
 42~44節「死人の復活もこれと同じである。《滅びゆくもの》で蒔かれて、不滅のものによみがらされる。恥ずかしいもので蒔かれて、栄光によってよみがえらされる。弱いもので蒔かれて、力によってよみがえらされる。一つの《魂の体》で蒔かれて、一つの霊の体によみがえらされる。一つの魂の体がある限り、一つの霊の体もある」。
 どのようにしてこの出来事が起こるのかについて 次の箇所ではこうしるされている、第二コリ5:4「私たちは現在の幕屋の中で苦しみうめいている。この幕屋を《脱ぎたい》と欲しているからではなく、むしろ《天にある永遠の家を上から着せられたい》と欲しているからである。それは死ぬべきものが生命に飲みつくされるためである」(ブルトマン訳)。ここでも地上的な身体性「死ぬべきもの」が復活の身体性「天にある永遠の家」を与えられる出来事を「上から着せられる」(神的受身形)として述べている。
 先の44節では「魂の体と霊の体」の対比が述べられ、復活は「霊の体によみがえさせられる」と表現されているが、この対比は「アダム一最後のアダム(キリスト)」「魂的なもの一霊的なもの」とさまざまに述べられている。特にプラトンの「霊魂不滅説」に対するパウロの反駁はここでは顕著である。人間の精神的な側面をつかさどる「霊魂・プシュケー」をプラトンらは不滅のものとみなしたが、その影響下にあった異邦人キリスト者の一部もあるいは(地上的な存在様式において魂が今すでに聖霊をうけたものとして不滅であろうと想定した)パウロのこの対比論でそれを「魂的」と規定し、「恥、弱さ」と特徴づけ(43節)、決定的に「滅びゆくもの」(42節)「死ぬべきもの」(53節)と規定しているからである。協会訳、前田訳の「肉の体」からは、パウロのいわんとした「魂と霊との鋭い対立」は読みとりにくい。
 「復活にはどういう意味があるのか。変容(「変えられる」51、52節)とは何を意味するかを53節が説明している。すなわち死人にとっても 生ける者にとっても、アフタルシア(不滅性)とアタナシア(不死性)とを《着せられること》が眼目である。…復活とは、アダムのキリストにおける救贖、ソーマ(身体生活)の述語化おける激変である。つまり魂的生としては《いまここで》ということだが、霊的生においては《かの時》[復活の将来]ということである。…どうかあなたがたはもう一度あの『このこと』(奥義」50節)を全緊迫性において注目してください。これこそ<キリスト教的希望>をかくも緊迫したもの、かくも如実なものとなすものであるから、この<キリスト教的希望>は徹頭徹尾、人間のいわゆるより善き部分に、一つの精神的なものそれ自体だけに関わりがあるのではなく、彼が体をもちかつ生きているがままの人間に、《この》滅びゆくものに《この》死すべきものに、関わりがあるのである」(バルト、講解)。
 53~54「というのはこの過ぎ行くものは不減のものを着、またこの死ぬべきものが不死なるものを着せられ《なければならな《》からである。しかしこの滅びゆくものが不滅のものを着、この死ぬべきものが不死なるものを着せられるとすれば、《その時には》、聖書に書かれているみ言葉が成就される。『死は勝利に飲みつくされてしまった』」。
 復活の出来事は「不滅のもの、不死なるものを上から着る」出来事である。この出来事は《神的な定め・摂理のもとにある》とパウロは述べている。それを示している用語が《終末論的な必然・デイ・必ずや…なければならない》である。
 [この用語はイエスのいわゆる受難予告にも出てくる、マタイ16:21「この時からイエスは自分がエルサレムに行って、長老ら、祭司長ら、律法学者らから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目に復活《しなければならない》ことを弟子たちに示しはじめられた」。すなわち、この出来事が「神的定め、摂理」のもとにあるのみならず、神ご自身がイニシアティブをとるみ業であることを意味している。イエスの受難、復活において、さらにキリスト者が天的衣服・霊の体を着せられる出来事においても、ある意味で神の姿は隠されているように映るが、神の行為をはっきり示しているのが、この用語である]。
 「着る」のは「不滅の、不死の《天的な衣服》」であり、同時に「キリスト者の将来的なありよう・実存」をも示している(コンツェルマン注解)。
 バルトの解釈では、この天的な衣服を着せられる出来事は「生がもはや《肉と血》とではなく、死がもはや滅びゆくもの(50節)ではなく、むしろ両者が神の権能のみ手にあり、今は隠されている《霊の体》が顕わとなり、今現に見える《魂の体》が《霊の体》を上から着せられる」出来事である。