建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

死後キリストと共に3  ピリピ1:22~23

2001-50(2001/12/9)

死後キリストと共に3  ピリピ1:22~23

 ここで眼目となるのは「世をたち去ってキリストと共にあること」が、いわゆる「死後ただちに復活することなのか」、それとも「死と復活以前の中間状態にある死者のありよう」なのかである。
 ブルトマンは「キリストトと共にあること」(1:23)をパウロは《死後ただちに実現すること》を願っていると解釈している(「新約聖書神学」)。さらにG・F・ホーソンの注解(1983)も述べている、
 「パウロは、1:23において主の来臨の折りの死者の復活とは別の見解を示唆しているように思われる。この見解によれば、キリスト者は死なんとしている時にただちに主のみ前に行って、主との人格的な交わりを味わう、すなわち将来的な復活は不要であって《復活は死の時点で起こる》との見解をパウロは示唆している」。

0・クルマンの解釈
 クルマンはけして《死者たちは死後ただちに復活するのではない》と述べている、「ピリピ1:23におけるパウロの言葉を考えよう。『世を去って、キリストと共にあることを私は願っている』(クルマン訳)。ここでパウロは、まさにキリストの再臨以前に死ぬ人の《中間的状態》に関して、確信にみちている。『キリストと共にあること』が、すでに霊の体を獲得することとして解されたことによって、この箇所の理解に至る道は閉ざされてきた。しかし、キリストにあって死せる者が『キリストと共にあること』を、そのように解釈すべきことは、これらの箇所のどこにも暗示されていない。…使徒パウロはすでにキリストの再臨の以前に、『世を去りてキリストと共にあることを願っている』(ピリピ1:23、第二コリント5:8)。『キリストと共にあること』は《いまだ体の復活を意味しない》。しかしそれは、聖霊の復活の力によって実現された、キリストとの一層深い結合をすでにすでに示している」(「キリストと時」1948、前田護郎訳)。
 クルマンはさらに「霊魂の不滅か死人の復活か」(英語版1957、ドイツ語版1986、翻訳は入手できなかった)においては、改めて「死者らの中間状態」について論述している。
 第一に、クルマンは「死者たちの状態」ついて、死者たちの《体の変容《》は個々人の死の後、ただちに生じるのでは《ない》という。この見解はバルトの立場、肉体的体の変容が個々人の死の瞬間に生じるとの立場に対するクルマンの批判でもある。この論拠としてクルマンは次の箇所をあげている。第二テモテ1:10「キリストは死を《征服し》、生命と不死性とを明らかになさった」。ところでここの「征服する・カタルゲオー」の意味は少し厄介である。というのはこの「死の征服」は決定的な死への勝利ではあっても、いまだ最終的な勝利は到来していない。「死は《征服されてはいる》が、しかし終末の時にはじて《死は滅亡させられる》」からだ(クルマン)。終末において「最後の敵として死は滅亡(廃棄)させられる」(第一コリ15:26)。死の減亡について黙示録も語る「死は火の池に投げ込まれた」(20:14)「もはや死は存在しない」(21:4)。
 第二に、クルマンは.ピリピ1:23「私が願っているのは、死んでキリストのもとにいることだ」を取り上げて、この箇所は《体の復活は個々人々の死後ただちに生じるとは言っていない》と解釈している。黙示録6:9以下では「(天上の)祭壇のもとにいる」殉教者たちの霊魂が「主よ、いつまで血の復讐を地の人々に対してなさらないのですか」と叫ぶと、「殉教者の数が満たされるまで、しばし休んでいるように」すなわち《待っているように》と彼らは告げられたとある。ピリピの箇所もこの黙示録の箇所も、さらに乞食ラザロが死後移された「アブラハムのふところ」(ルカ16:23)も、キリストにあって終未以前に死んだ死者たちの状態、いわゆる《中間状態》について言及して「アブラハムのふところ」「祭壇のもとに」「キリストと共に」と《その死者たちが特に神の近くにおる》と表現されている。彼らは《すでにといまだ》との間の緊張関係に関与してしている、という。