建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

キリスト者の死1

2001-52(2001/12/23)

キリスト者の復活への希望

キリスト者の死

 聖書は人間の死を二つの視点からみている。一つは、人間は罪を犯したからその報いとして死ぬ、呪いとしての死という見解。もう一つは、被造物存在のもつ有限性、限りある生命のゆえに、死ぬ、自然的な死という見解である。
 旧約聖書のイザヤ38:18以下のヒゼキヤの祈りでは、死者が神との絆が断ち切られている、と述べられている。
 「陰府はあなたを讀美せず、死はあなたをほめたたえない。墓にくだる者はあなたの真実を待ち望まない。生ける者、生ける者のみ、今の私のようにあなたをたたえる」(関根正雄訳)。
 ここでは死者は神との関係を喪失した存在と述べられている。つまり死は神との、他の人々、家族、友人たちや仲間との、自分の暮らしている世間、自然環境、あらゆるものとの関係の喪失を意味する。詩6:5、115:7「死においてあなたを覚えることはなく、誰が陰府であなたを讚美しうるであろうか」、詩88:12「あなたの義は忘れの国(陰府)で知られるであろうか」。
 創世記における人類の原初史(1~11章)は、理想的な神関係が劇的な状況において破壊されていくという視点で描いた(フォン・ラ-ト「旧約聖書神学」一巻)。
 アダムをとおして罪が人類に侵入してきた。「一人の人[アダム]をとおして罪がこの世に入った」(ロマ5:12)。この罪の侵入は、アダムが「善悪を知る木からは[その実を]食べてはならない」(創世2:17)との神の戒めを破って、その実を取ったことから始まった(同3:6)という。
 「神は知識の領域においては、神と人間との間に限界をもうけておく必要があると考えられた。『善悪を知る木』の、『善と悪』は、ここでは一方的に道徳的意味ではなく、『あらゆること』の意味で理解すべきだらだ。したがって人間は《自分の被造物としての限界を超えて神のような生命を得よう、神のようになろうと試みること》によって、神に対する服従という素朴さから抜け出してしまったのだ。そうすることによって、人間は神に近い楽園での生活を棒にふってしまった。彼に残されたのは、労苦の中の生活、疲労困憊させる謎に満ちた生活、悪の力との希望なき戦いに巻きこまれ、最後には無条件に死に陥るのだ」(フオン・ラ-ト、前掲書、強調引用者)。
 旧約聖書では民数記27:3のみがこう述べている「コラは自分の罪のゆえに死んだ」と(コラは荒野の放浪の時モーセに背いた人物)。
 パウロは「罪と死との関連」について繰り返し述べている。「またアダムの罪をとおして死がこの世に入り込んできたように、死はすべての人間に拡がった。すべての人が罪を犯したからだ」(ロマ5:12以下)。パウロは後期ユダヤ教のアダム論をふまえつつ、それとは別の結論を引き出した。人間はアダムの堕落と罪責のゆえに死にみまわれるのではなく、むしろ個々人が犯した自分の罪のゆえに、この罪が自分に死をつむぎ出すゆえに死ぬのだ、と。パウロは人間の死の原因を、病気、事故、老衰、すなわち自然的なものとはみていない。彼はこう結論づける「罪の報いは死である」(ロマ6:23)。人間は罪を犯したから、その報いとして死ぬのだと。罪は人間に関係の喪失をもたらす「死とは人をこのような関係喪失への追いやることの総計である」(ユンゲル「死」、蓮見訳)。
 他方旧約聖書は例外的に「幸せな死を迎えた小数者」についても述べている。「アブラハムは善き老年期にいたり、年老いて寿命が満ち、息を引き取り、死んだ」(創世25:8、ラ-ト訳)。このように語られたのは、他にイサク(35:29)、ヨブ(ヨブ42:18)など少数者にすぎない。これは「天寿をまっとうする」という表現が妥当する「自然的な死」の姿である。「死ぬべき人間の存在から非存在、への移行は『最後の敵』[死]をとおして征服されることを意味するのではなく、むしろその敵[死]が滅亡させられた後に、完全にして究極的な神との出会いを意味し、永遠に神と向き合った存在、最高度に積極的な神との共なる生を意味する」(バルト「教会教義学」Ⅲ/2、47節、終わる時間、吉永訳参照)。