建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

キリスト者の死2

2001-53(2001/12/30)

キリスト者の死2  黙示録20:4~6、12~15 

「第二の死」 からの解放
 すべての人間の地上的な生命はいつか終る。あえていえば「第一の死」である。しかしそれですべてが終るのではない。旧約のダニエル書は万人の死後の復活を説いているが、復活した人々を待ち構えているのは、救いではなく、むしろ審判・よりわけである。その審判をとおして永遠の生命に入る者と永久の恥と憎悪の的となる者にふりわけられる(ダニエル12章) という。
 「第二の死」とは黙示録2:11、20:6、14、21:8に出てくる用語、見解で「火の池」すなわち永遠の滅びを意味する概念である。「死者たちは書物の中に記されていることにより、彼らのわざに基づいて審かれた。…死と黄泉とは火の池に投げ込まれた[死自体の減亡のこと]、また生命の書物に名をしるされてない者は火の池に投げこまれた。このものが第二の死である」(黙示録20:12、14、15、佐竹明訳)。21:8によれば、火の池に投じられるのは「臆病な者(神に対して全幅の信頼を欠いているために恐怖におそわれる人)、不忠実な者(死に至るまでの信仰への忠実さに欠ける者)、忌み嫌われた者(すなわち)殺人者、淫行者、魔術師、偶像礼拝者、およびすべての偽りもの」である。この第二の死は、死の中での死であるといえる。そして旧、新約聖書は人間を神に背く存在とみなし、人間の死を通常この「第二の死」の形態の中でみている。
 「<死の中での死>は、まさしく新約聖書の見解によれば《廃止される》ことが<ありうる>。それは偶然によるのでも人間の意のままになるものでもなく、むしろ神の途方もない介入に基づいている。その具体的な介入の形態が、イエス・キリストの死と復活である。『私の言葉を聞いて、私を遣わした方を信じる者は、永遠の生命をもち、審きを受けることがなく、むしろ死から生命へと移されている』(ヨハネ5:24)。このような状態のもとで<第二の死>は廃止される。さらに<不自然な死からの>この解放は、明らかに<自然的な死に向けての>人間の解放<をも>意味している」(バルト、前掲書)。
 他方「被造物的生命の限界としての死」が存在する。この生命の限界としての死を受け入れない行動と関連して、ゴルヴィッアーは創世記3:4の、蛇の誘惑の言葉、禁断の木の実を食べれば「神のように善悪を知るものとなる」についてこう述べている、「被造物は終りなきものではないし、時間的な意味で永遠のものでもない。神のようにありたいといった《終りなき存在への私たちの願望》は、私たちの被造物性に対する反乱である」(ゴルヴィッアー「曲がりくねった木まつすくな道」)。
 この「終りのある存在の死」について新約聖書は「眠りにつく」と表現している。「『眠りにつく』は、自然的な、キリスト者の死ぬこと、死んでいることを表現する新約聖書の特徴的な表現である」(バルト「教会教義学」Ⅲ/2 47節、終わる時)。「眠りにつく」という用語は次の箇所がある。復活顕現に出会った500人以上の兄弟たちのうち「数人が眠りについた」(第一コリント15:6)、「キリストにあって眠りについた人々」(同15:20)「イエスにあって眠りについた人々」(第一テサロニケ4:14、いずれも亡き教会員たちのこと)「眠りについた人々」(同4:13、第一コリント11:30、亡き教会員たち)。またユダヤ入による石打ちで殉教したステパノも「眠りについた」とある(行伝7:60)、ダビデの死にも用いられた(行伝13:36)。第一世代のキリスト者たち「先祖たち」の死について「先祖たちは眠りについた」(第二ペテロ3:4)、ラザロの死「私たちの友ラザロが眠りについた」(ヨハネ11:11)など。
 「キリストへの希望にもとづいて、<自然的な死>に向かっての解放が存在するということは、人間の死自体は、被造物の生に属すもので、この者にとつてく必然的なもの>である。……イエスはその生命を愛することをなされなかった、まさしくそのことによって私たちの生命を滅びから救い出してくださったのであるから、私たちはイエスによって救い出された自分たちの生命の限界をつかんで離さないように招かれている。私たちは終りを持たなければならないよう、したがって私たちの希望をすべてイエスの上におくよう、命じられている」(バルト、前掲書)。