建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

キリスト再臨の遅延1 キリスト来臨の遅れに関する譬

2002-1(2002/1/13)

キリスト来臨の遅れに関する譬

 すでにみたように、キリストの来臨の時に、眠りについた(死んだ)キリスト者の復活が起きるとパウロは語った。しかしこのキリストの来臨を遥かに遠い将来の出来事とみなし、自分の死のほうが確実に早いと想定して、来臨待望のテーマを意識から締め出してしまう、すなわち意識的に「キリストの来臨を忘れるという事態」は問題である。
 実際初代の教会、テサロニケ教会では、主の来臨のテーマを念頭におくことなく、あるいはそれを正しく認識することをしないで、すでに亡き教会員たちが滅びてしまったのではないかといった動揺が起きた(第一テサ4:13以下)。これに対してパウロは主の切追した来臨とその時における亡き教会員らの、生者に優先した復活と生き残った者たちとのキリストのもとへの移行について語った。
 パウロは自分の生きている時期に、このキリストの来臨があると考えていた(第一テサ4:13以下「主の来臨のおりに生きていて、生き残っている私たち」、第一コリ15:51、52「私たちすべてが眠りにつくのではない。…[生き残って来臨を迎える]私たちは変容させられるであろう」)。パウロ以後の時期においても、キリストの来臨は遅れていた。しかし教会は来臨の遅延に直面しても大混乱に陥ることはけしてなかった。共観福音書の成立の時期においては(80~90年代)キリストの来臨の遅延はいわば前提とされて、マタイとルカは《譬の形で》キリスト者にキリストの来臨・再臨に対して待機せよ、と勧告し続けた。
 マタイ伝から三例を取り上げたい。10人の乙女がランプをもって花婿を迎える譬においては(マタイ25:1以下)「婚礼の宴に花婿が《手間取つている》」とある(25:5)。原語クロニゾーは、来ない、ぐずぐずしている、手間取る、遅れる、の意味。他にルカ12:45、ヘブル10:36「来るべき方は遅れることはない」など。花婿の到着の遅延は《キリストの来臨の遅れ》を比喩的に表現したもので、イエスの再臨は人が考えている以上にまだ長く待ち望なければならないとの意味、ルツ注解。実際花婿の到着は「夜中」であった(25:6)。この花婿の到着をどのようにして待つかに関して、賢い乙女らは別に容器に入れた油を準備して花婿を待った、すなわち備えをして主の来臨を待望することがポイントになっている。
 タラントの譬では(マタイ25:14以下)、 ある人(主人)が旅行に出かける時、僕たち三人に、力に応じて、五タラント(五年分の年収額、3000万?)、2タラント、1タラントを預けて《主人の不在中に》そのタラントを生かして働かせるようにした。すなわち主人の旅行による不在中、キリストの昇天と来臨の間の時期、中間時は、教会共同体、キリスト者が託されたタラントを生かして働かせる教会の活動、伝道活動の期間である。「《主人が帰って来た時》」、ここは原文では「キュリオス・主が来た」で「帰って来た」は再臨の意味をこめた意訳、以下も同じ。この主人は「かなり日がたってから帰って来た」とある(19節前半)。直訳では「長い時がたった後に」。主の来臨はすぐには実現しないが、にもかからずしばらくすれば確実にあること、をマタイは強調している。「主人は僕たちと貸し借りを清算した」(19節後半)。来臨の時はここではキリスト者が主人(主)に託されたタラントを不在中に有効に働かせたどうかを、キリストが判定され、審かれる重大な時である。不在中タラントをよく働かせた者は、 善き忠実な僕とほめられるが、 タラントを土の中に埋めていた者は厳しい審判を受ける。