建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

来臨の遅れ2  ルカ12:35~38

2002-2(2002/1/20)

来臨の遅れ2  ルカ12:35~38

 目をさまして主人の帰りを待つ僕の譬でも(マタイ24:45~51)、来臨の遅延が取り上げられている。この譬でも、主人の不在中、すなわち中間時におけるキリスト者の行動が眼目である。
 「主人が召使たちの上に立てて、時間時間に彼らに食事を与えさせるようにした僕のうちで、いったいどんな僕が信頼にたる賢い者であろうか。《主人が帰って来た時》、言いつけとおりになしているのを主人に見い出される僕こそ何と幸いなことか。アーメン、私は言う、主人は彼に全財産を管理させるであろう。しかしある悪い僕が『主人は手間取っている』と心の中で考えて、仲間をなぐり始めて、酔つばらいと一緒になって飲食しているとすれば、彼が《予期もしない日、考えてもいない時刻に主人が帰って来て》、彼を八つ裂きにして、偽善者と同じ目にあわせるであろう」(ルツ訳、48節「主人は手間取っている」も来臨の遅れの意味)。
 これと並行記事となっているのが、「目をさまして主の来臨に対して待機している僕の譬」である(ルカ12:35~38)。
 「あなたがたの裾をからげて、ランプに灯をともしていなさい。あなたがたは、婚礼の宴から《主人が帰って来る》のを待つ人々のようでありなさい。《主人が帰って来て》戸をたたくとすぐに開けられるためである。《主人が帰って来た時に目をさましてのを見い出される僕たちはなんと幸いなことか》。アーメン、私は言う、主人は裾をからげて僕たちを食卓につかせ、そばに来て給仕してくださるであろう。《第二夜回り、第三夜回り》だとしても、《主人が帰って来た時》、このようにしている[目をさましている]のを見い出されるとしたら、その人々はなんと幸いなことか」(ボォッホ訳)。
 「裾をからげる」は、旅に出かける人の旅支度、あるいは仕事をする人が作業に取りかかる支度を指しているが、過越の祭りの夜もこの象徴的行動「裾をからげる」をとった、「食べる時には、裾をからげて、足に靴をはき、手に杖をもって、急いで食べなければならない。それはヤハウエのための過越なのである」出エジ12:11(ボォッホ、注解)。「ランプの灯をともす」は、夜の時間帯における重要な客の訪問、主人の帰宅が想定されていて、緊迫感があって異様である。夜は安息の時として、からげた裾をおろし、灯は弱くする時とはみなされていないからだ。出エジ12:42によれば、過越の夜は代々にわたってすべてのイスラエルの子らがヤハウエのために《寝ずの番をする》夜である。ユダヤ教の過越にしても他の救済史的出来事も《夜に起こる》のである。またユダヤ教において人々は《真夜中に到来するメシア》を待望していたという、ボォッホ。この譬でも深夜における主人の帰還が焦点である。主入の不在は中間時を想定しているが、10人の乙女たちの譬のように、花婿の到着が遅れるからといって眠ることはここでは許されない。僕たちには定められた仕事時間がないので、全員が寝ずの番をして緊張して主人の帰宅に備えていなければならないからだ。主人は友人か親戚の婚礼でかなり遠くに出かけたが、そこは泊りがけの距離の所ではない、主人は外泊する必要がないからだ。とにかく彼はもどってきて戸をたたく。この主人はキリストを、旅はキリストの復活と昇天という不在、僕たちの待つ行為は、キリスト者のキリスト来臨への待望、主人の予期せぬ刻限の帰宅は、予期せぬキリストの来臨・再臨を示唆している。37節の、主人が帰って来た時、目をさましているのを見い出される僕たちはなんと幸いであることか、がこの譬の中心ポイント。37節後半においては、主人と僕たちの役割が逆転する。主人が僕たちを食卓で給仕をする、キリスト来臨における《メシア的な祝宴》である。
 38節における「第二夜回り、第三夜回り」は注目すべき時間設定である。当時へブライ人は夜の時間を4つに区分していた、マルコ13:35「あなたがたは家の主人がいつ帰って来るか、《夕方か、夜中か.一番鶏か.夜明けか》知らないのだから」。主人の招かれた婚礼は第一夜回りのころ行なわれたようだ。だとすれば、第二夜回りは《夜中》、第三夜回りは《一番鶏》午前2時ころということになる。したがって主人のもどる時刻は常識で考えられる以上に遅いことになる。すなわちキリストの来臨もそのように遅延するとルカは考えている。この状況でこの譬が呼びかけているのは、裾をからげてランプに灯をともせ、すなわちたえずキリストの来臨を念頭において、来臨に向けて緊張して待機をせよ、ということにある。