建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

来臨の遅延4 日本における再臨待望2

2002-4(2002/2/3)

主の来臨の遅延3  マタイ24:36

 第三の脱線として、内村は「神癒」を否定した。神癒は共に再臨運動をした中田重治のホーリネス教団が強調した宗教的な癒し行為で、内村はこれに反対した。「医術は悪魔の発見なりと唱え 医療は不信の罪なりと称するは余の同意するあたわざる所である。…疾病を癒さんと努むる近世医術はその原理において決して神の聖意に戻る[もとる]ものでない」(前掲評論)。
 キリスト来臨への待望について内村はこう述べている、
 「[キリスト再臨の]その日その時はただ天父のみこれを知りたもう。天の使者らも何人も知る者はない[マタイ二四・三六]。しかして知らざるがさいわいである。知らざるがゆえにいそしみて待ち望むのである。…余がいま特に祈求[もと]めてやまざるものは、忍んで待ち望むの心である。これさえあれば余は墓に下りて《千年万年余の救主の再臨》とこれに伴う《身体の復活》を待つことができる」(前掲「キリストの復活と再臨」、強調筆者)。
 さて中田重治は評論「伝道と主の来臨」で述べている、
 「主の再臨に関する思想に二つの流れがある。一つは千年期前再臨説で、他は千年期後再臨説である。前者はキリストが再臨したもうて後に千年王国がきたると信じ、後者は、世は改善せられてその結果千年王国となり、それからキリストは大審判の時に再臨するというのである。後者のうちにはいまは千年王国時代であると説くのもある。どちらもいますぐにくるのでなく、<千年王国後に>来たりたもうと信じている。前者はキリストの再臨をば一日でも早かれかしと求め、かつ祈るのである。後者は概してそれに対する憧憬がないようである。われらはむろん前者を信ずる。しかし同じく信じていても、十分伝道してからでなければ、主は再臨したわぬかのごときことを言い、一種変態後の千年後再臨説に類したことを言っている者もなきにしもあらずである。<大いに注意すべきこと>である。聖書には『また天国のこの福音を万民に証しせんために、あまねく天下に宣べ伝えられん。しかるのち終わりに至るべし』(マタイ24:14)とある。この宣伝は全世界を教化してからというのではない。この意味がわからないと、まだ救われていない者はたくさんいるから、主の再臨がそう早くては困ると口に言わなくても<腹の中でそう思う>ようになる。されば主よ来たりたまえと心底から祈らないようになる。かかる人は、主よ来たりたまえと祈らなくても、コツコツ伝道して人を救うておれば、主のほうで都合よろしき時においでくださる、とすましているような風がある。これははたして主を愛する者の態度であろうか。ご自分の王国を早く建てたく思っている主の御旨をわきまえおるなれば、冷淡にしておられぬはずである。『われ必ずすみやかに至らん』(黙示録22:20)とあるから、なんとかお答えせねばなるまい。しかるにこちらの都合のために、すなわちまだ救われずにいる親族縁者があるために、しばらくお待ちを願いますと言わんばかりの態度であっては、神の聖霊を憂えしめること最も大いなるものである。われらは主の再臨が近いからいよいよ伝道する。…われらは世はますます悪化していると信じている。されば一日も早くキリストに来ていただくことも、教会にとっても全世界にとっても何より幸いなことであると信じている。…」(1933・昭和8年3月、「全集」第4巻) 末尾なし