建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

カヤパの審問  マタイ26:62~64

2002-8(2002/3/4)

カヤパの審問  マタイ26:62~64

 さてユダヤ教当局、 最高法院でイエスが告発された中心ポイントは、大祭司カヤパの審問にあるように「あなたは讚美される方の子、メシアなのか」(マルコ14:61、マタイ26:63)、すなわちメシア詐称の嫌疑であった(周知のようにメシアのギリシャ語訳がキリスト。メシアはあぶらを注がれた者・受膏者で大祭司、預言者、宗教的存在ばかりでなく、政治的存在、ダビデら王もあぶらを注がれた)。メシアでない者がメシアだと偽って活動したことが瀆神罪に当たると告発されたのだ。この嫌疑の根拠となるイエスの言動には、イエスの《全権要求》の箇所がある。
 第一に「私は言う、誰でも人々の前で私を[主と]告自する者を、《人の子》も神のみ使いたちの前で[弟子として]承認するであろう」(ルカ12:8、ヴォッホ訳)。周知のように、ここの「人の子」は後期ユダヤ教エチオピアエノク書、ダニエル書7章などに登場している「メシア称号」である。イエスは生前このメシア「人の子」をご自分と同一視されて、ご自分を神の代理人とみておられた(パンネンベルク「キリスト論綱要」イエスの神性認識)。
 イエスの全権要求の第二の箇所は、ヨハネ10:24~26、30以下、
 「ユダヤ人らがイエスを取り囲んで言った『あなたがメシアであるのなら、そうだとはっきり言ってください』。イエスは答えられた『私はそうだと言ったのに、あなたがたは信じない。私が父の名で行なった業が私のことを証明している。しかしあなたがたは信じない。…《私と父とは一つである》』。…ユダヤ人らはまたもやイエスを《石打ちの刑》にしようと石を持ってきた。イエスは彼らに反論された『私は父による多くの善き業をして見せたが、そのうちのどの業のために私を石打ちの刑にしようとするのか』。ユダヤ人らは答えた『善い業のゆえに石打ちの刑にしようとするのではない。むしろ《神冒瀆》のためである。あなたは人間でありながら、自分を神としているからだ』。イエスは答えられた『…私が父の業をなしているなら、私を信じなくても、その業は信ぜよ。そうすれば、父が私の中に、私が父の中におることがあなたがたにわかるであろう」(シュナッケンブルク訳、強調引用者)。
 「あなたはメシアなのか」との大祭司の審問に対して、イエスは答えられた「私はそれである」(マルコ14:62)。これは絶対的な肯定の答である。他方「あなたがそうだと言っている」(マタイ26:64、塚本訳「そうだと言われるならご意見にまかせる」)の場合には、イエスは「回答を回避された」のではなく「決定的ではない肯定」をされた、プリンツラー「イエスの裁判」などの解釈。ほとんどの解釈は「イエスがメシアであると公言した」とみる、コンツェルマン、モルトマンなど。
 では自分をメシアと公言する者は、みな神をけがす瀆神罪に問われるのであろうか。これについては、自分をメシアと僭称するだけでは、サンヘドリン・最高法院は死刑判決を出せないという見解がある、コンツェルマン(「共観福音書の受難報告における史実と神学」)。その根拠として引き合いに出されるのが、バル・コクバ(星の子の意味、後130年ころ)で、彼はラビ・アキバにメシア王と讃えられたが、ユダヤ教当局から瀆神罪で告発されていない。では「なぜ」メシアと半ば公言されたイエスに大祭司カヤパは死刑判決を出せたのか(マルコ14:63、マタイ26:65)。
 結論は簡単である。大祭司は始めから公正な裁判をしたのではなく、イエスを瀆神罪で有罪にしようとの「予断をもって」審問にのぞみ、本来法的には有罪には相当しない、イエスのメシア告白のみで、瀆神罪に仕立て上げた、ということである。大祭司・最高法院にとっての「伝統的なユダヤ教のメシア像」と、イエスの姿は決定的にかけ離れていたからだ(プリンツラーなど)。「彼にはわれわれの見るべき姿も美しさもなく、われらの慕うべき容姿もなかった」(イザヤ53:2)。聖戦を戦うダビデのような、シリアからの解放闘争の指導者ユダ・マカベウスのような勇士(旧約外典マカベア書)のおもかげもなく、抵抗もせずに無力な姿で捕縛され、危急に際しては弟子の一人に裏切られ、他の弟子たちに見捨てられて、敵の暴力に引き渡されるイエスのあわれな姿と行動には「メシア的な輝き」が欠落しているようにみえた(プリンツラー)。最高法院は「イエスは神を冒瀆している。イエスは無力なのに、自らを神と同じ位置においたからだ」(モルトマン)とみたのだ。