建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

十字架  マタイ27:45~50

2002-10(2002/3/24)

十字架  マタイ27:45~50

 メシアであるイエスの苦難と十字架の死を《美しい、気高い死》《その時点における贖罪の死であった》として理解することは、いくつかの問題を惹き起こす。
 第一に、「十字架のつまずき」(ガラテヤ5:11)、「十字架につけられたキリストはユダヤ人にはつまずきである」(第一コリント1:23)が無視される点。パウロは十字架のイエスを「キリストは私たちのために呪いとなりたもうた」と述べ、「木に架けられた者はすべて神から呪われる」(申命記21:23)を引用した(ガラテヤ3:13)。「あなたがたが木に架けて殺したイエス」(使徒行伝5:30、10:40、協会訳は「木」を「十字架」と意訳してポイントを弱めている)、「キリストは木に架けられて」(第一ペテロ2:24)などはみな「呪われたイエスの死」のイメージを表現している。ヘブル書もイエスの十字架が「神から見捨てられたもの」であることを強調する「イエスは《神から遠く離れて》すべての人のために死を味わわれた」(へブル2:9)、「キリストの祈りと願いとは《聞き入れられなかった》」(へブル5:7)。「イエスは十字架を耐え忍ばれ<それ>を恥辱と思わないで」(同12:2、ここでは十字架は恥辱とされている)。このように十字架におけるイエスの死については、マルコ、マタイ以外の文書も神から見捨てられた者の死との強烈な表現をしており、これを無視することはゆるされない。
 第二に問題となるのは、イエスの十字架の死は復活後初めて「救いの出来事」として把握された(啓示された)のであって、十字架の「時点」では「挫折とつまずきの事件」としかみえなかった点である。イエスの美しい死(贖罪死)によっては弟子たちの逃亡、彼らの信仰の喪失、絶望は起こりえないだろう。イエスの死に対する弟子たちのつまずき、絶望という現実は弱められたり、度外視されてはならない。イエスの死は弟子たちの絶望を惹き起こしたばかりでなく、やがてはその絶望を包み込み癒すものであったのではないか。
 イエスの叫び「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」は、むろん人間的絶望一般を表現したものではなく、神を信じる者の絶望、神に見捨てられたことへの嘆きを表現している。
 「この言葉は底の知しれない絶望について語っている。そしてまさしく神に語りかけたものでもある。死の瞬問には砕くことのできないこの支えも砕け、神によるこの世も空しいものとなる。しかしこの絶望の叫びは同時に詩篇の言葉にある《わが神への祈り》でもある。この絶望の表明と祈りという二つは、さらに別のモチーフを開示している。神への近かさ、いわば神を所有することが、このように深い絶望の言葉によって表現されたことは、これまで一度もなかった」(ローマイヤー、マルコ伝註解)。
 ローマイヤーはイエスのこの叫びに含まれた「絶望と祈りとのアンヴィバレンツ・逆説的共存」をきちんと把握した。
 ローマイヤーとシュラーゲの解釈では、イエスがあの叫びで一方で神に身を委ねたにせよ、他方では絶望しておられたと解釈した点が印象的である。ゲッセマネにおけるイエスの絶望の告白は十字架のあの叫びにおいて極点に達したといえる。

旧約聖書学者クラウス・ヴェスタマンの解釈
 「神に見捨てられたという嘆きは、詩篇においては重い出口なき苦しみの表現である。詩篇の嘆きの歌においては、神へのこの訴えはしばしば私たちが世俗的な言葉で絶望、無意味さの深淵の経験と名づけていることを表現している。イエスが十字架でこれらの言葉を取り入れている場合(マルコ15:34)、イエスはそれによって自分の民族の多くの苦しむ人々の何千何百という苦しみの中に踏み入っているのである。このことをとおしてイエスは多くの苦しむ人々の中の、一人の苦しみを受けた者以外の何者でもなくなってりる。イエスはこの嘆きの中で、自分の民族の多くの苦しむ人々の苦しみ、幾世代にわたる入々の苦しみが刻印されている苦しみの用語を取り入れたのである。この無意味さの中に浸透するその働きは、人類の苦しみのためにも起きたのだ。イエスの働きと苦しみは、名のなき多くの人々の苦しみの列につらなるものである」(「旧約聖書神学概要」 1978、村上伸訳、クラッパート「和解と解放」の邦訳版。彼の論文「アウシュヴィッツ以後のキリスト教神学におけるユダヤ人」より引用、ドイツ語版にはこの論文は入っていない)。

ハインリッヒ・フォーゲルの解釈
 「この世で最も望みなき場所はどこであろうか。病院の重患べツトを考えるべきか、あるいは強制収容所の拷問の柱、ガス室、あるいは死刑囚の独房、あるいはヒロシマの無数の犠牲者を考えるべきであろうか。どこが最も深い絶望の場所なのか、私にはわからない。しかし事実、この世で最も望みなき場所は、決して神を見捨てたことのない人間が神ご自身によって見捨てられて処刑台に架けられたところである。この場所はイエスの十字架である。それはこの世のあらゆる神の蝕とはちがった神の蝕であり、イエスはこの蝕から『わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか』と叫び声を上げられた。人間の将来がこの場所ほど全く失われたと思える場所も出来事も決して存在しない。人間のいかなる言葉をもってしても叙述できない、いかなる知識によっても決して到達できない。驚異すべきことは、まさしくこの場所で、人間に、将来が、永遠の将来が開かれたことにある。この人間イエスは、神のみ子であり、したがって神ご自身であるが、自ら私たちの隣人となられた。この方は、私たち人間が自己を理解するのとはちがって、全人類の問いかけに耳を傾ける方である。自己の宗教性の無数の道で私たちは神を探し求めたが、自分自身の似姿にいきついただけであった。しかしイエスは私たちを探し求めて、私たちが絶対もうだめだ、終りだ、というところで私たちを見い出してくださった。この方に対して神は、アーメン、しかりと言われて、この方を死からよみがえらせたもうた。しかしこの方は生と死とにおいて私たちと関わろうと欲しておられたのであるから、私たちも[生と死において]この方と関わっている。かくしてこの方は私たちのために神の将来に至るドアとなられた」(チェコの神学誌「旅人の交わり」1959。ゴルヴィッアー「曲がりくねった木ーまっすぐな歩み」より引用)。