建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

(復活)モルトマンの立場  ロマ8:34

2002-14(2002/4/21)

モルトマンの立場  ロマ8:34

 モルトマンも《復活の史実性を否定する》。 むろん彼は復活を否定しているのではなく、むしろ彼は現代の神学者の中で最も精力的に復活を肯定して力強く復活論を展開している一人である。彼が復活の史実性を否定するのは、史実的方法によって復活の現実を把握できないとみているからだ。
 「キリストの復活を、十字架の死と同様に《史実的・historisch》という人は、復活と共に始まる新しい創造を見過ごしており、また終末論的な希望をゆるがせにしている。…死があらゆる生を《史実的なもの》となす限り、死は歴史(Geschichte)の力とみなさなくてはならない。よみがえりが死者たちを永遠の生命に導き、また死の滅亡を意味する限り、よみがえりは歴史の力に打ち勝ち、自ら歴史の終りとなる。私たちが二つのもの[キリストの十字架と復活]を対比するとすれば、その場合にはキリストの十字架は世界史の黙示録的終りの到来となり、死人の中からのキリストのよみがえりは《世界の新しい創造の始まりに立つ》ことになる。それゆえ私たちは《キリストの終末論的復活》について語る。…パウロはキリストの十字架の死と復活との比較できない性質を『はるかにまさった』という言い回しで表現した(ロマ8:34「キリスト・イエスは私たちのために死んだお方、《いやそれ以上に》よみがえらされたお方として、神の右に座して私たちを執り成してくださる」)。そしてそれによってキリストの復活の終末論的な約束の圧倒的剩余を表現した。この圧倒的な剩余、豊かさは初代のキリスト者ギリシャ正教会の神礼拝の、復活祭における途方もない歓喜の中で歌われている」(モルトマン「イエス・キリストの道」)。モルトマンに対する不満は、パウロの復活理解とルカの復活理解、身体具有的復活とのすりあわせ、対比論を取り上げていない点である。バンネンベルクはこれをやっているが、グラースの立場に依拠して、パウロの立場を尺度としてルカの立場を史実的でないと判断している、と思われる。
 いくつかのポイントを取り上げたい。
 第一に、復活の出来事を単なる「奇跡」や「神話」あるいは「魂の経験」とみなすことはできない。また「私たちの存在の外部で起きたもの」ではなく、私たちの「内部・心の出来事」のみに転調させること、さらに復活を「復活信仰」のテーマ(ブルトマン)や弟子たち・キリスト者の実存の変容、すなわち絶望した弟子たちが、生き返ったように希望に満ちた存在に変わったとのテーマ《のみに》転調させることは問題である。
 第二に、復活についての聖書の記事を、パウロの第一コリント15章のみに限定して、《福音書の復活記事を過小評価すること》は問題である。この過小評価の傾向は従来のドイツの神学に著しい。その傾向はやはり福音書の復活記事が「史実的な出来事として確認できない」とみなしたからだ。しかし史実的な研究の成果を前提にして(その成果にしても暫定的であり、ある種の仮説にすぎない)その成果をものさしにして、パウロの書簡のみを大きく扱い、福音書の復活記事をより小さく扱うという方法論、史実的でないと切り捨てる帰結を引き出す方法には疑問を感じる。