建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

エマオの弟子たちへの説明  ルカ24:25~32

2002-20(2002/6/2)

エマオの弟子たちへの復活させられた方の説明  ルカ24:25~32

 復活のイエスご自身がエマオに向う弟子たちにこう語られた、
 「(復活の)イエスは二人に言われた『ああ、預言者たちが言ったことを何ひとつ信じなない、悟りの惡い、心の鈍い人たちよ。メシアは《必ずや》このように苦しみを受けて、栄光に入ら《ねばならなかった》のではないか』。そしてモーセ(五書)とすべての預言者から始めて、聖書全体においてメシアについて論じていることを二人に説き明かされた」(ルカ24:25以下)。
 ここでの眼目は、復活のイエスご自身が弟子たちにメシア(キリスト)の苦難について旧約聖書が証言していることを解明する点にある。ここの「かならずや…ねばならない・デイ」は神によって定められた必然性のことであるが、この神的必然はメシアの受難が「はじめののうちは理解できない、ぞっするような謎に満ちた出来事」であることを示している(ブルトマン「ヨハネ伝註解」)。イエスの受難「メシアは必ずや苦しみを受けなければならない」は、神的必然として表現されてはいるが、その表現でもなかなか解明しつくされないような謎として示されている。言い換えると、復活の光に照らしてしか、復活した方ご自身による解明という働きなくしては、イエスの受難の謎は解けなかったのだ。
 ルカ伝は旧約聖書の具体的な箇所はあげていないが、メンアの受難の預言として、イザヤ53章は決定的に重要である。
 「彼(苦難の僕)の運命を誰が考えるであろうか。彼は生者の地から切り取られ、われらのとが(咎)のゆえに死に遭遇したのだ(53:8)…ヤハウェの計画は彼を打つことであった(53:10)。…見よ.わが僕は栄える。彼は高められ、非常に高く挙げられる(52:13)」。
 このエマオの弟子への顕現記事は、福音書最古のものと言われている。いくつかのポイントにふれたい。
 1、先にふれたように、十字架の出来事は「復活したご自身の解明によらなければ、解けなかった」という点。
 2、復活させられた方の「認知」は、パンを裂くその方の姿で実現したこと、31、35節。
 3、イエスの復活の認知の瞬間、イエスの姿が消失したこと、31節後半。復活させられた方の身体性の問題として注目すべきである。
 4、復活のイエス旧約聖書を説き明かされたとき弟子たちの心が内で燃えたこと、32節、真性な信仰体験はこのような人々の心を打つ言葉を残すものだ。