建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

トマスへの顕現  ヨハネ20:24~28

2002-21(2002/6/9)

トマスへの顕現1  ヨハネ20:24~28

 他の弟子たちは復活の主に触れることなく、主の復活を信じた。しかしトマスは「主の手と脇腹との傷痕に触れること」がないならば、イエスの復活を納得できないと言い切った(25節)。「手の釘の傷痕」「脇腹(の槍の傷痕)」は、ヨハネだけ。19:34によれば、イエスの死の確認はローマ兵がイエスの「脇腹を槍で突くこと」でなされた。この「手の釘の傷痕と脇腹の槍の傷痕」は、復活した方はほかでもなくあの十字架で処刑された方と「同一の方である」いわゆる「同一化のモチーフ」である(ミハエリス、ブルトマン「注解」、ヴィルケンス、シュナッケンブルク「注解」)。
   トマスの話では、他の弟子たちがトマスにイエスの復活顕現においてその手と脇腹を見たことは前提とされている、彼らがトマスにそのことを語ったからだ(ヨハネ20:25)。しかしトマスは他の弟子とは違って「苦難の傷痕への接触をとおして、復活した方の真の身体性を確認し、またそれによって仲間の弟子が見たのが幽霊である可能性がすべて排除されるならば、その場合にのみ、主の復活を信じると反論した(25節後半)。8日後、イエスは同じ時刻同じように鍵のかかった同じ場所に顕現された、26節。
 主はトマスが復活顕現を信じる絶対的条件として要求した事柄を驚くべき仕方で知つておられてそれをかなえられた、27節「あなたの指をここにもってきて、(傷痕のある)私の両の手を見てみなさい。あなたの手をとって私の脇腹に差し込んでみなさい。もはや不信仰にならず、むしろ信じる者になりなさい」。
 《主による愛の証明》にトマスも私たち読者も圧倒されてしまう。そしてトマスはイエスの復活を信じるに至る、そのことを彼の信仰告白が示している「わが主よ、わが神よ」(28節)。
 では実際にトマスは「復活した方の身体に触れた」のかどうか、その接触をとおして信仰告白へと導かれたのかどうかは、論争されている。イエスがトマスに回答した言葉「あなたは私を見たので(だけで)信じたのか」(29節)における「見た」は、「接触」を排除したものではなく「見て触るというニュアンス」であろう、しながら「現に触った」とはしるされていない。状況的には、トマスは「さわりなさい」との復活した方の指示に度肝をぬかれてしまい「見ただけで」ただちに信仰を告白し、かつ「接触」自体は断念したとも映る(ブルトマン、マルクス・バルト)。これに対して、グラースは確実に復活した方はさわることができたと解釈する。その根拠として第一に、ルカ24:39の「さわってみなさい。幽霊には肉と骨はないが私にはそれがあるのがわかる」では、実際の接触がなされたと述べている。
 顕現において復活した方が「その手と脇腹を見せられた」(ヨハネ20:20)の背景には、復活した方の身体性を否認した、グノーシス的異端、仮現節的異端の「霊魂的な復活論」に対する反論の態度があるようだ。ヨハネの手紙においてもグノーシス主義、仮現節への批判は明らかである(第一ヨハネ1:1「私たちが聞き、親しく目にし、よく見て手でさわったもの」、4:2「イエス・キリストが肉でこられたと告白する霊」など)。しかし反グノーシス主義的「身体的復活の現実性」の強調は、パウロの「地上の体と霊の体の問の緊張関係」を踏み超える危険をはらんでいる。

 

2002-22(2002/6/16)

トマスへの顕現2  ヨハネ20:24~28

 さてブルトマンは先の20:29のトマスへの復活した方の言葉「あなたは私を見たので信じたのか。幸いなるかな、見ることなく信じる人々」について述べている、
 「復活した方の顕現が現実的な事件である限り、根本においてそれらは[復活した方の体を見たりさわったりする顕現自体]は不可欠ではない。実際それらは必要ではないはずだ。しかし人間の弱さのために許容されている。…復活した方を肉体的に見たい、そうだ、手でさわりたいというトマスの願いはかなえられる。しかし同時に彼は叱責されている『あなたは私を見たので信じたのか。幸いなるかな、見ることなく信じる人々』。その中には啓示する方が手でさわれるように現われることを願う信仰の小ささに対する批判がある。また復活祭の物語をそれに許されていること以上のもの、しるし、表象、復活祭信仰の告白と受け取ること以上のものにしようとすることに対する警告が存在している」(「新約聖書神学」川端純四郎訳)。
 ブルトマンの批判はトマスの態度、しるしを求める実証主義的態度に対してばかりでなく、もう一つ、復活した方が弟子たちに手と脇腹を見せた「復活祭の奇跡、復活祭物語一般」にも向けられている。
 しかしながら、他の弟子たちへの顕現(20:19~23)は、「身体具有的な顕現・現臨」であった。「私たちは主を見た」(25節)との証言からみて、彼らは今やイエスの復活を信じているが、彼らの信じた方も「復活した方を見たので信じたやり方」であったのだが、彼らの信じ方は復活した方に批判されてはいない。
 イエスを試そうとして「天からのしるしをイエスに求めた」パリサイ人やサドカイ人の要求をイエスは拒絶された(マルコ8:11、並行)。しかしトマスは同じような拒絶にはあっていない。拒絶ではなく、むしろ《主は心からの憐れみを疑い深いトマスにくだされた。それはすべての疑いを捨て去らせるには十分なものであった》(グラース)と解釈すべきだ。29節のイエスの言葉「幸いなるかな、見ないで信じる人々」は、後代のキリスト者を念頭においている。復活顕現は、パウロへの顕現をもって完結してしまった。後のキリスト者は復活証言(復活宣教)だけで、キリストの復活を信じる時代にある。もはや初期の時代におけるように、顕現に出会って、目で見たり、手でふれたり、耳で聞いたりしてイエスの復活を信じることはできないのだ。この復活のイエスの言葉はトマスの信じ方を批判するものではなくて、むしろ顕現なしに、復活についての証言、復活宣教だけで、イエスの復活を信じる人々への「幸いなるかな」の祝福の言葉である。