建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

終末論の研究史3  ドッド「神の国の譬」

2002-26(2002/7/14)

終末論の研究史3  ドッド「神の国の譬」マタイ19:28

二、人の子の来臨について
 このポイントについてのドッドの解釈は想定されるとおり、否定的である。彼はマタイ19:28「新しい世界が生まれて人の子が栄光の座につく時には、あなたがた12人も12の王座ついて、イスラエルの12族を支配するであろう」)、ルカ22:28以下などを分析しつつ「ごく古い伝承においてはイエスが人の子として歴史の上で再び来臨する、との明確な預言が保有されていたかどうかは疑間である」と解釈した(前掲書、第三章「人の子の日」)。さらに彼はこう述べている、
 「イエスは、われわれが今正確には復元できない言葉で、彼自身が死からよみがえること、彼の人格において神の大義が最後の勝利を得ることを預言したこと、そして教会が自己の経験の光でイエスを解釈したこと、これらは歴史の面である確かさをもった推測である。これらの預言のあるものは、イエスの復活の予告として表現されている。それは彼の弟子たちがごく初めの時期に復活を経験したからである。その他の預言は、イエスが『天の雲にのって』再臨するとの言葉で表されている。その再臨は『人の子の日』をもたらすものであり、これは黙示文学的様式で考えられている。イエスは唯一つの出来事を述べているのに、弟子たちはそれを二つの出来事に分けてしまった、一つは過去の出来事、イエスの死人からのよみがえりであり、もう一つは未来の出来事、イエスが雲にのって来ることである。…かくして原始教会の終末観的な体系が打ち建てられた」(前掲書)。ドッドは、人の子の来臨という未来的終末論を決定的に軽視している。

三、来臨の遅延に関する譬えについて、
 ドッドは、マルコ13:34~37「目をさましていなさい。あなたがたは家の主人がいつ帰ってくるか知らないのだから」、マタイ24:45~51、ルカ12:35~46にある、譬について解釈している(第五章、危機の譬」)。「はたしてイエスご自身が弟子たちに長くいつ終るともしれない中間時代の後にやって来る彼の再臨を期待するようにと教えられたのだろうか」とドッドは疑問視している。そして彼はこう結論づけている、
 「この譬は弟子たちに再臨を待って、長く不確かな時期の間を準備しているようにと語られたものではなく、むしろ現在弟子たちに臨んでいる危機[迫害と苦難]の中で警戒することの必要性を強調するために語られたものである」(第五章)。
 ドッドの見解は、ここでもキリストの来臨の遅延の状況におけるキリスト者たちへの勧告であるはずの譬のグループ(他にマタイ25章)の解釈においても、未来的終末論の視点を欠落させている。
 ドッドの見解は同時代の多数の学者たち彼の後の学者には支持されなかった。しかし彼は無視しえない挑戦を主張した。その結果多数の学者たちがイエスの説教における「すでにといまだ図式」に注目し始めた。神の国は、ドッドの主張したように、この世におけるイエスのふるまいとして現在的現実であるが、しかし神の国は(ヴァイスとその後継者が言うとおり)その成就を待ちこがれる将来待望のものであった。
 (このポイントは、ドイツのエレミアス「イエスの譬」1966、キュンメル「約束と成就」1957、ボルンカム「ナザレのイエス」1960、アメリカのノーマン・ペリン「イエスの教えの再発見」1967などの著作においては論争されている)。