建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

マルコ伝のキリストの来臨1&2

2002-36(200211/10)

マルコ伝のキリストの来臨1  8:38~9:1

 マルコ伝は3つの「人の子の来臨」につい述べている。8:38以下、13:26以下、14:62以下である。
 8:38~9:1「この不倫で罪深い世で誰でも私と私の言葉を恥じるならば、人の子が聖なるみ使いらと共に、父の栄光のうちに来る時、人の子はその者を恥じるであろう。そしてイエスは彼らに言われた、アーメン、私はあなたがたに言う、神の国がみ力のうちに来るのを見るまでは、ここに立っている者のうち何人かは死を味わうことはないであろう」
 この箇所はイエスの全権要求の箇所の一つである。イエスとイエスの語る言葉を恥じる、は教会の変節者や嘲笑する者、自分たちの罪で主を汚した者の意味、グニルカ注解。
 「人の子の来臨」についてはじめてここで述べられている。イエスを恥じる者を到来する人の子が恥じる、イエスと人の子とが同定されている。ルカ12:8~9。グニルカはこう注解している、  「人の子の神的特質を述べた栄光は、イエスの父の栄光である。それによって単に人の子キリスト論とみ子キリスト論とが互いに結合されているばかりでなく、人の子の天的な姿が神のみ子としてイエスをはっきりと認識させるてもいる。マルコ以前にあった人の子とイエスの同一視は、神のみ子の方向に向かって解釈されている」。
 9:1はまったく別のテーマ「神の国の到来の時点」について語られている。ここで述べられているのは、イエスの周りの集められた弟子たちの何人かは、神の国の到来を見るというものである。しかしこの言葉は、イエスが弟子たちに語られたとおりを記者のマルコが書き留めたものではない。この節は初期キリスト者集団の一部にあった「キリストの来臨の遅延」の問題の背景で見るべきである。 この箇所の神の国到来の時期の設定では、イエスの終末論的説教が際立ち、イースター以後成立した言葉であることがわかるからだ。
 この箇所では、人の子の来臨と神の支配・神の国の究極的な到来とが結合されている。それによってマルコ的な神の国理解のキリスト論的な構想を認識できるよにするばかりでなく、人の子を神の国に入るかどうかに関して決定する存在であるとみなしている。来るべき人の子は、苦難と死に備えをなした、地上的な人の子イエスと同一視される。

 

2002-37(2002/11/17)

マルコ伝の人の子の来臨2  マルコ13:24~27
 マルコ13:24~27「そのような艱難の後、その日には、太陽が蝕となり、月は輝きをやめ、星は天から落ち、天の軍勢が揺さぶられるであろう。その時、人の子が大いなる力と栄光とをもって、天の雲にのって来るのを人々は見るであろう。そしてその時、人の子はみ使いを派遣して、地の果てから天の果てまで、四方から選ばれた人々を選ばれるであろう」グニルカ訳
 この箇所ではヤハウェの日における神の怒りを向けられたものに起きる現象が旧約聖書イザヤ書などがふまえられて述べられている、イザヤ13:10「天の星と星座とはもはやその光を放つのをやめ、太陽は出ても暗く月はもはやその光を輝かさない」、34:4「すべての星はブドウのの木からは葉が落ちるように、いちじくの木から葉がおちるように、落ちる」。これは、「ヤハエの日」に起こる出来事である。イザヤの箇所では、審判はバビロンなどに向けられている。このような宇宙的、天体的異常現象は神による決定的な出来事の前兆として、悪しき人々への審判として述べられている。 罪人らに対してなされる審判の怒りは詳細に述べられるのではなく、隠喩的に装おって暗示されている。とはいってもこのような宇宙的天体的異常現象の描写を単なる象徴表現としてだけ解釈してよいものかどうか、それらの描写がこの世の運命に関する何かを言っていないかどうか、は大きな問題である。明らかなのは、この描写が、単なる象徴にすぎないものではなく、象徴と現実をふまえたもの、預言との間にあることであろう。言い換えるとポイントは、世に対する罰を与える審判、世の徹底的な変容、変化にある。
 26節。この終末時のドラマの頂点は、「人の子」の出現である。ここの「雲」は自然現象のそれを意味するのではない。雲は天的なもの、神に属す存在である。「大いなる力と栄光」は、詩8:6に由来するが、暗閣と混沌とを明るく浮かびあがらせる人の子のもつ高位さを際立たせる。
 さて人の子の来臨の目的は何であろうか。「人々は人の子の来臨を見るであろう」とあるが、「人々」の他の人は言及されていない。しかしここでは神の敵対者、悪人たち、罪人らが取り上げられてと推測できる。そして彼らにとっては、人の子は彼らを審判するために到来されるのである。この審判者の到来については、エチオピアエノク書も述べている「その日には、すべての王たち、権力ある者たち、身分の高い者たち、他の土地の所有者たちは(彼の前に)立つ。…彼らは、人の子が栄光の座に座るのを見て、彼を知るであろう。彼らの顔は恥で満たされ暗闇が彼らの上に増し加わるであろう。義人らと選ばれた者たちとは、その日に救われ、霊魂の主は彼らの支配者となり、彼らはこの人の子と共に住み、食事や寝起きを永遠に共にするであろう」62:3、10~14。
 マルコ伝がダニエル7:13に由来するのは明らかである。しかしマルコ伝の人の子という表象は、ダニエル7章から引き継いだものではなく、 むしろこの7:13との関連が承認されたものだ。ダニエル7章においては、「人の子」でなく、「人の子のような者」次にこの人の子に代わって、7:27では「いと高き者の聖なる民」に言及される。人の子は、権力と栄誉と王的力が与えられた。すべての民族と国民らが彼に仕え、 彼の権力は滅びることのない永遠の権力であるというのが7:14。他方27節では、王的力、全天下の権力と王国の偉大さが、いと高き者の「聖なる民」に与えられる。その王的力は永遠の力であってすべての権力ある者たちは彼に仕え、彼に服従するであろうとある。言い換えると7:13と27とでは、人の子のイメージが一つにしぼりきれないといえる。