建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

神への愛2  申命記6:4~5 マルコ12:29~31

2003-1(2003/1/5)

神への愛2  申命記6:4~5 マルコ12:29~31

 マルコ12:29における「神への愛」について、取り上げたい。神への愛を一体どのように理解すればようのか。キリスト教神学、信仰においては、神への愛は中心的なテーマとはなりえなかったようだ。神への愛は、神への関わり、信仰という言葉に置き換えられてきた。例えば申命記6:5からの引用である、マルコ12:29にしても信仰上の大いなる箇所との印象はない。神への愛は中世においては神への服従と理解された、トマス。宗教改革の時期カルビンは神への愛を十戒の第一戒の成就との関連でしか語らなかった、綱要。宗教改革の後継者らにとっても、神への愛は信仰から来るものであり、神を愛する者はまず、しっかりした信仰を持たねばならない、と考えられた。
 近代以後の伝統においては神への愛は、神の戒めを守ることと、考えられた。第一ヨハネ5:3「神を愛するとは、すなわち彼の戒めを守ることである」という立場である。神への愛は人間の感情に見合ったものではなく、むしろ意思に見合ったもの、喜ばしい、自由な神服従である、ヴェルンレ。
 プロテスタント教会は、神への愛よりも神からの愛について多く語ってきた。しかしそれは正しかったのか。隣人愛を強調することは、けして神への愛をどうでもよいものとはしないであろう。「隣人愛(マタイ22:39)は神への愛(22:35)の重要な表現となった」という見解は(ブルトマン、カール・バルト)一貫してプロテスタンチズムを流れている。しかしここでは隣人へ愛のゆえに、神への愛自体が軽視され、無視された、と感じられる。これに比べて、カトリックの側では「神への愛」は今なお真剣に受けとめられている。出家などの形で。
 申命記6:5についてのユダヤ教の解釈では、神への愛はまず第一に、服従、敬虔、律法への忠実という行為において表現されている。すなわちその者の生活を神の戒めに捧げることを言っている。「あなたの全心でもって(マタイ22:35)は、ユダヤ教的には神服従が分割できないこと、非分割性を意味していた。「精神をつくして(あなたの全生活をもって」(同)でユダヤキリスト者は殉教を考えていた。また三つ目の「思いをつくして」は直訳では、「あなたの全思考能力をもって」(ルツの訳では「あなたの全思考をもって」)、とあるので、神への愛は、感情や祈りや遁世的な神神秘主義をではなく、むしろ唯一の神への認識、この世において神に服従することを意味していた。マルコ12:29以下では、マタイの箇所「第二はこれと同様である」マタイ22:39)とは違って、神への愛を「第一の戒め」と呼んでいる。これはプロテスタントの教会で起きた誤解、先の「二重の愛」(マタイ)のうち、隣人愛を重視するあまり、神への愛を消失してしまった誤解に対して、強固な反論となる。
 これと関連するのが、ヨハネ12:1~8の、マリアという女性が高価なナルドの香油をイエスに奉献する話がある。弟子の一人のユダが彼女の行為を批判して「なぜこの香油を300デナリ(300万円)で売って貧乏な人に施しをしないのか」4節。イエスは彼女を弁護された「私の埋葬のために、かまわないでそうさせておきなさい。貧乏な人はいつもあなたたちと一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではないのだから」8節。この話では、貧乏人への施し、イエスへの奉献、愛が鋭く対立した者として、把握されていて、しかも隣人への施しよりも、イエスへの奉献、神への愛のほうを優先している。
 結論的には、神への愛とは、神との直接的な関わりをもたらす行為、聖書講読、祈り、聖礼典への参加を意味するものと解釈したい。この行為は隣人愛には解消されないものである。