建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

神のマナ  申命記8:2~3

2003-3(2003/1/19)

神のマナ  申命記8:2~3

 「またあなたの神、ヤハウェがあなたを40年荒野へと導いた、そのすべての道を想起しなさい。それはあなたを謙虚にさせ、あなたを吟味し、あなたがヤハウェの戒めを守るか否か、あなたの心を知るためであった。ヤハウェはあなたを謙虚にし、飢えさせ、あなたも祖先も知らなかったマナをあなたに食べさせた。それは人間がパンのみによって生きるのではなく、むしろ《ヤハウェの口から出るすべてのもの》によって生きることを知らせるためであった」。ラート訳。
 ここでは40年にわたる「荒野の放浪」を「想起せよ」とあって、40年の荒野の放浪の意味づけがなされている。この出エジプトの民は一方的に神の恵みを受けただけで、神のその恵みにふさわしい民であるかどうかは、いまだ不明であった。この民に課せられたのが、民に対する「神による吟味」であって、「ヤハウェの戒めを彼らが守るかどうか」を知るために、「飢え」という苦しみを神は彼らに課せられた。それが神のパン、天のパンの奇跡である、出エジ16章。この飢えの体験は彼らにとって重要な契機、人間的などん底状態で神信頼の契機とされた、という。飢えという危機の中で、神のマナが与えられた(詩78:24以下では「天の穀物、天使のパン」とある)。それは「人間はパンだけによって生きるのではない」。これはむろん「パンによって生きる」生活を否定するものではない。「人間は地上的な食物によって生きるだけではない」(ラート)。しかし「パンによってのみ生きるのではない」の「のみ」はパンがない飢えの状況でしか把握されない。
 「ヤハウェの口から出るすべてのもの」の解釈は難しい。ラートはここを「人間は自分に明らかにされる《神の言葉》を頼みとする」と注解する。しかしこの解釈はマタイ4:4「神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」(70人訳からの引用)と同じ解釈である。これは、申命記の「ヤハウェの口から出るすべてのものよって生きる」の意味を「神の口からの言葉」に限定してしまっていて、意味的に「ずれ」ている。「ヤハウェの口から出るすべてのもの」は「神の言葉」とは限らないからである。神の口から出るものとしては、また神の約束、列王上8:15「ヤハウェはその口をもって私の父ダビデに約束された」、さらに「神の息」がある、創世2:7「神は土のちりで人をつくり、命の息を吹き入れた」(ヨハネ20:21「イエスは弟子たちに息を吹きかけて言われた、聖霊を受けよ」参照)。二つのポイントにふれたい。
 第一に、要するに「神の口から創造されるすべてもの」(ラート)は言葉だけでなく、物質的なものも含む。ここではヤハウェが人間の生命を長く保つためのマナが眼目である。にもかかわらず、「地上的なパンのみで生きるのではなく」は、文字どおり「地上的なパンのみで生きる」生き方を超えた生き方を指向している。ここにも地上的なパンのみで満足してしまった、定住後の民のありようへの批判を読みとれる。荒野でマナ・神のパンを「創造された」神の、創造を強調することで、カナンでの豊かな収穫を豊穣の神バールの産物として、バール崇拝する民への批判・論争を意図していよう。かつて飢えの状況で民にパンを与えられたのはヤハウェであって、バールではなかった。現在民にパンを与えるのは、バールでも、民の働きの結果でもなく、ヤハウェの創造の業である。
 第二に、マナは神の口から創造される、霊的なものである。これは「地上的なパン」を超えたものであるが、この「霊的なもの」は神の言葉、神による聖霊である。しかしこの霊的なものが認識されたのは、人間の苦境、飢えの状況をとおしてだけである。荒野のイスラエル、40日の断食の後の、イエスキリスト者は、困窮の中で神におもむき、助けを哀願し、幸福とパンを乞い求める(ボンヘッフアー)。しかし地上的なパンによってのみ生きるのではなく、霊的なもの、神の聖霊の支えと導き、神の言葉によって生きる存在である。