建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

12弟子の召命と派遣1  マタイ10:1~8

2003-4(2003/1/26)

12弟子の召命と派遣1  マタイ10:1~8

 「イエスは12弟子を一緒に呼び寄せられて、あらゆる病気と病人を癒すため、汚れた霊に対する全権を与えられた。2~4節省略。イエスは12人に次のように命じて派遣された。『異邦人の道に行くな。サマリア人の町に入るな。むしろイスラエルの失われた羊のもとに行け』。行って宣教せよ、天国は近づいていると。病人を癒し、死人をよみがえらせ、らい病人を清め、悪鬼を追放せよ」。
 この箇所で、注目すべき第一のポイントは、イエスが弟子たちに「病気を癒すため、汚れた霊を追い出す全権を与えられた」点である。弟子たちが、ただ宣教委託「天国の接近」ばかりでなく、同時に「癒しの委託」も受けたという点はどう理解すべきか。
 グニルカはこう注解する、「12弟子は人間の苦しみを征服する全権を与えられた。この全権は、『罪を赦す全権(9:6)、教える権威(21:23)、一切の全権(28:18)』などに示された、イエスご自身の活動を継承し、教会の中でその活動を継続するためのものである」。だとすれば教会が託された業は、宣教の活動ばかりでなく、病気の癒しの活動があったはずだが、近代以後の教会では、そうなっていない。
 癒しの委託は宣教の委託と同じ重要性をもつ。11:5にあるように、イエスの癒しはその宣教と密に関連していた。イエスの癒し奇跡において教会は主イエスの力強い援助を認識した。癒しの委託は本質的に宣教と関連し、具体的な救い体験 癒し体験を含んでいた、ルツ。このポイントについてエレミアスは述べている
 「彼らの使命は救いの時の到来を告げること、また悪霊追放をとおしてサタンの支配圏に侵入すること、の二つである。彼らはこの宣教をイエスご自身と同じやり方、言葉と業によって遂行しなければならない。…12人の宣教者の託された仕事の偉大さにつりあっているのが、彼らの受けた《全権・権能》である。この全権は霊に満たされていることが前提になる。ただ神の霊だけが悪霊を追放する力ををもっからだ。イエスはこうして派遣する宣教者に全権を付与する時、いわば霊を注いで彼らを武装なさったのだ」(「イエスの宣教」)。初代の弟子・使徒たちの宣教方法(言葉と癒し)と近代の教会のやりかた(言葉にみ)の相違点に着目したのは、ハルナックである。
 第二のポイントは、弟子たちに託された宣教の内容が「天国は近づいた」7節である点で、これはイエスの宣教と同一である、4:17。だとすれば、イエスの復活以後開始された原始教団、使徒たちの宣教とは違うものであるはずだ。使徒たちはイエスの復活後、神の国についてではなく、むしろ「苦難し、よみがえらされたキリストについて」宣教したからだ。行伝2:23~24のペテロの説教にはこうある「イエスが渡されたのは神の定めと計画と予知によるのであるが、神はこのイエスを死の苦しみから解き放ってよみがえらせた」と。したがってこの箇所が、イエスの苦難と死と復活以前の時期における、弟子たちの召し、派遣を述べたものであることは明らかだ。10:23後半「人の子が来るまでは、あながたはイスラエルの町々を(回り)終えることはないであろう」は、宣教の中で弟子たちが遭遇する追害から助ける方として人の子の来臨をイエスは語っておられる。
 第三のポイント。伝道対象をイスラエルに限定したこと。5節。「異邦人の道に行くな、サマリア人の町に入るな」は、イエスが異邦人やサマリア人神の国から閉め出されると考えておられたからではない。マタイ8:11以下。むしろイエスはご自分がイスラエルにだけ派遣されたとの自覚のゆえである。カナンの女15:24。イスラエルの家の失われた羊たちとは、イスラエルのうちの罪人や零落した人々、のけ者にされた人々のことではなく、むしろイスラエル全体を指している。異邦人伝道、世界伝道はイエスの復活後においてなされた。